23 ステパノ(2)

約束の信仰に立って
                                使徒 7:1−7
                                創世記 12:1−4
T ステパノの説教第一

 聖書の人物、ステパノの2回目です。7章の彼の説教は余りに長く、飛ばしてしまおうかとも考えたのですが、殉教の部分だけを取り上げるのはいかにも片手落ちで、何よりも、彼が〈御霊と知恵とに満たされた〉人であるということが、彼のこの説教に最も良く現われていると思われますので、時間はかかりますが、少しづつ区切って見ていくことに致しました。彼の説教はアブラハム、ヨセフ、モ−セ、ダビデと、旧約聖書の4人の人物を取り上げ、イスラエルの歴史を辿っているように感じられます。簡単に考えますと、ユダヤ人に向けての説教ですから、イスラエルの歴史は当然、この説教の中心部分・イエスさまを語る序文のようなものであろうと考えられがちですが、そうではありません。ステパノは、アブラハム、ヨセフ、モ−セ、ダビデとイスラエルのことを語りながら、それを知らない現代の私たちに対しても、いくつかの点で、神さまからのメッセ−ジを伝えたいと願っているように思われます。そのメッセ−ジを、まずアブラハムから聞いていきたいと思います。


U アブラハムの子孫として

 ステパノの説教が始まります。リベルテンの会堂に属する人たちが彼を「私たちは、彼がモ−セと神をけがすことばを語るのを聞いた」と訴えたところから、サンヒドリンの議会で弁明をするはめになりました。その弁明がこの説教ですが、これは告発者の訴えに対する弁明であると、心に留めながら聞いていきたいと思います。

 「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムがカランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました」(7:2-3) 創世記にアブラハム召命の記事があります。「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしの示す地に行きなさい。そうすればわたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」(12:1) これはカランを出る前のことですが、カルデヤのウルでも同じ召命があったものと思われます。彼の弁明は、ユダヤ人に良く知られている記事とほとんど同じものです。〈兄弟たち、父たちよ〉とこの呼び掛けには、自分も同じユダヤ人同胞であるという意識と、大祭司を父と呼ぶユダヤの尊敬が込められています。そこに大祭司や長老、律法学者たちがステパノへの告発者、裁判官として並んでいましたが、彼らの前でステパノの説教が続きます。

 「ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子どももなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです」(5)とこれは、アブラハムがカナンで妻サラを葬るために、唯一ヘテ人から買取った、マクペラの洞屈とその前にあるわずかな畑以外、75才から 175才までの百年の間、彼の所有となる土地がなかったことを言っているのです。しかも、イサク、ヤコブと世代を重ねていく中で、自分所有の土地に定住出来る筈だったのに、何故か 400年ものエジプトでの奴隷の期間が加わるのですが、ステパノはそのことにも言及します。「また神は次のようなことを話されました。『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される』 そして、こう言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしがさばく。その後、彼らはのがれ出て、この所で、わたしを礼拝する」(6-7) それでもアブラハムは神さまの約束を信じ続けました。その神さまの約束への信仰がアブラハムを支え、ついにイスラエルという民族国家の誕生となったのです。「大祭司、長老たちよ。あなたがたはそのアブラハムの信仰を引き継いでいるではないか。私も同じである」と、これがステパノ弁明のひとつの中心ではなかったかと思います。

 言外の証言はともかく、彼は良く知られている父祖アブラハムの出来事を単々と話します。ユダヤ人というのはまことに不思議な人たちで、誰もが良く知っている事柄であっても、こと聖書のこととなると、誰かが語るそのことばを、実に辛抱強く拝聴するという姿勢があるようです。憎しみを込めて議会に引き出したステパノの弁明でさえ、それが聖書からの話しであると、彼らはじっと聞いています。


V 約束の信仰に立って

 ステパノの説教を大祭司たちが喜んで聞いている、その理由を考えてみたいのですが、それは、彼らがアブラハムの子孫であるという誇りを持っていたからでしょう。彼らは神さまの選びの民でした。それは、アブラハムやモ−セに向かって語られた約束でしたが、ステパノが弁明の中で言う「この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束された」という約束を、彼らはその子孫として聞いたのです。それは彼らへの約束に関わるものでしたから、たとえそれが被告席にいる者の話しでも、謹んで拝聴したのでしょう。現代のユダヤ人たちにとっても、アブラハムは血のつながりによる「父」なのです。そういった誇りを共有する者としてステパノは、彼らが良く聞いていたアブラハムの出来事を、ほとんどそのまま語りました。しかし、その本音にはもっと別の、どうしても証言したいことがあったのです。

 ヘブル書にこうあります。「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのか知らないで、出て行きました」(11:8) ステパノには、このアブラハム理解と同じものがあるように思われます。彼の中心メッセ−ジは、アブラハムが約束の地においてさえ、旅人としての生涯を送っていたという点ですが、それはまさにヘブル書の記者の主張でもありました。ヘブル11章は信仰について語っているところですが、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はその信仰によって称賛されました」(1-2)と始まります。ステパノはここに、アブラハムへの神さまの約束と彼の信仰を見ているのです。神さまはアブラハムに言われました。「星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」 そして〈彼は主を信じた。主はそれを彼の義を認められた〉(創世記15:5-6)と言われるのです。この約束の信仰に立つことこそ、アブラハムの子孫たり得るのです。その信仰を見失って久しいユダヤ人、大祭司たちの前で、イエスさまの十字架に罪を赦され、よみがえりにより、まだ見ていない天の御国に招かれることが、実はこの約束の信仰に立つことであると証言するステパノの輝きが伝わってくるようです。7章の終わりに、怒り狂って石をぶつけるユダヤ人たちの前で彼は殉教していくのですが、その時、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言います。見えないけれど、神さまの保証する祝福を彼は救い主から頂いたのでしょう。それは、約束の信仰に立つステパノに、イエスさまが下さった光栄ではなかったかと思われます。ステパノとは冠という意味ですが、私たちも同じ栄光の冠を頂く希望に立っていたいと心から願わされます。