21 金持ちの青年

主の祝福を求めて

                               マタイ 19:16−22
                               イザヤ 55:1−5
T ペレヤ地方にて

 今回はマタイ19章から、イエスさまのところにやって来た、現代人そのものとも言える一人の青年を見ていきましょう。

 この時期、イエスさまはガリラヤ地方を離れ、ヨルダン川の東、ペレヤ地方に来ています(19:1)。多分、6ケ月以上ここで働かれたようですが、イエスさまは今、この地方を離れ、十字架かかるため、エルサレムに行こうとしています。この青年は、出立のためイエスさまが滞在された家を出られたその時、大急ぎで駆け付けて来たのです。そして、イエスさまに質問します。

 ペレヤ地方はもともと、モアブ、アモン人といった外国人が住んでいた土地で、聖書には出てこない名前です。そこはヨルダン川を見下ろす1000mほどの高原地帯で、緑少なく、アラビヤの砂漠につながりますが、そこには、ヘロデ大王がアラビヤとの国境防衛のために設けたマケロスの砦があり、ガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスが、その砦を父王から受け継いで別荘の宮殿に改装した、多分、バプスマのヨハネが殺されたところのようです。旧約と新約の中間時代と言われる BC100年頃、ユダヤ人が多く居住するようになったと言われ、ユダヤ教に改宗した外国人も多かったためか、ユダヤ地方に数えられながら、パリサイ人や律法学者といったユダヤ人指導者たちの影響も少なかったようです。イエスさまがこの地方に滞在している間に、大勢の人たちが弟子になったのではないかと考えられます。しかし、ガリラヤ地方からのイエスさま追い出しに成功した(と思った)パリサイ人たちは、ペレヤからもイエスさまを追い出そうと画策し、(多分エルサレムから)イエスさまのところに来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」(19:3)と質問したのは、そんな彼らの計略だったのでしょう。それを契機に、イエスさまはペレヤでの活動を終え、エルサレムに向け出発されようとします。15節に「そこを去って行かれた」とあるのが、そのペレヤ出立のようです。そしてその時、この青年が息せき切って駆け付け、青年とイエスさまとの会話が始まります。


U 永遠のいのちを得るために

 「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのですか。良い方はひとりだけです。もしいのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい」「どの戒めですか」「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」「そのようなことはみな守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」「もし、あなたが完全になりたいなら、帰ってあなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」そしてこの青年は、このことばを聞いて悲しみながらそこを立ち去っていったのです。〈この人は多くの財産を持っていたからである〉とマタイは締めくくっています。

 この青年、マタイでは〈ひとりの人〉となっているだけですが、マルコとルカの平行記事を合わせますと、彼の人物像が浮かび上がってきます。彼は若い役人で金持ちでした。親の地位と財産を引き継いだ2代目か3代目だったのでしょう。もしかしたら、パリサイ人で、ユダヤ人会堂の役員もしていたかも知れません。そんなエリ−トで、町の指導者階級の一人と思われるのに、パリサイ人たちが目の敵にするイエスさまのところに教えを乞いにやって来ます。結構真面目で勇気もあり、人生のこともいろいろと考えていた……。彼ほどではないにしても、その姿は現代の私たちに重なってくるようです。

 今、子どもたちの間に広がっているさまざまな問題、大人たちの間に蔓延している政治、経済、人間に対するさまざまな失望と犯罪。すでに崩壊している筈なのに、刹那的な物中心の生活。そんな暗い部分が、平凡な私たちの生活の中にまで入り始めていると感じるのですが、それでも、まだ大部分の人たちは、この青年のように、真面目で礼儀正しく、生活設計をきちんとしたいと願っているのではないでしょうか。そんな良識がまだ生きていると思うのです。しかしそれが、「永遠のいのちを得るために」といった魂の問題に、どれほど真剣な思いをもってぶつかっているか、考えさせられるところです。この青年とイエスさまとの会話から、そこに求められている神さまとの出会いを、現代人の私たちも真剣に願っていかなければと感じるのです。彼は〈どんな良いことを〉と言いましたが、その良いことへのためらいが、私たち現代人と神さまとの出会いを妨げる大きな壁になっていると思われてなりません。


V 主の祝福を求めて

 彼は永遠ということを問題にしました。永遠とは神さまの領域です。ユダヤ人は、神さまの選びの民であるとの強烈な意識を持つ民族ですが、彼はその自分の民族の、しかもパリサイ人という宗教的指導者の中に、その領域への憧れも期待もないことに失望していたのでしょう。きっとこれまでにも彼は、「永遠のいのち」のことを、先輩や尊敬するラビ(律法学者)たちに尋ねていたのでしょう。しかし、納得できる解答を得ることはできませんでした。だから、まだイエスさまの回りにうろうろしていたであろうパリサイ人たちを無視し、直にイエスさまのところにやって来ました。恐らく、イエスさまを陥れようとする彼らのたくらみに、彼は加わっていなかったでしょう。彼の魂は、神さまご自身との出会いを求めて、飢え渇いていたのです。現代人に、果たして彼のような魂の飢え渇きがあるでしょうか。ユダヤ人のほとんどは、律法を教育されることで、レベルの高い倫理を身につけていたのですが、教育レベルが高いという点では、日本人も決して負けてはいません。しかし、神さまと出会うことがないのです。ユダヤ人たちはきっと、神さまに近づくために、律法という文字に囚われ過ぎていたのでしょう。「安息日には何の仕事もしてはならない」という文字に拘って、エレベ−タ−のボタンさえ押さない人たちです。パリサイ人がイエスさまを目の敵にした第1の理由は、イエスさまが安息日に病気の人を癒されたからということでした。彼らは、生活習慣としての律法を知ってはいましたが、そこに込められた神さまの生き生きとした息吹を忘れてしまったのです。そして、私たち日本人は、いのちを創造された神さまに聞くことが出来ずにいます。内的生活、心の奥深くを見つめることができないと言ってよいでしょうか。今起こっている問題の多くは、この聞くことができないところに原因があるように思われます。人の意見、そして何よりも、神さまのことばに聞くことが出来ないのです。

 彼が「みな守っています」と胸を張った、殺すな、姦淫するな、盗むな……とは、十戒のことばです。それにイエスさまは、「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」と付け加えられました。それは、「心を尽くし、力を尽くして神を愛せよ」と並んで、全律法のエッセンスとも言われてきたものです。イエスさまが殊更それを言われたところに、彼の大きな問題があったのでしょう。「もしあなたが完全になりたいのなら……」、持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい。金持ちのユダヤ人はよく施しをしました。しかし、それは愛からの行為ではなく、金持の社会的義務だったのです。律法を守っているというユダヤ人の正義の、これが中身でした。ですから、彼に欠けていたのは、愛だったと言えるでしょう。イザヤ書にこうあります。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ」(55:3) 主の祝福を求めてやって来た彼に、イエスさまは愛ある者になることを薦められたのです。〈愛の契約〉とあるイザヤの預言は、イエスさまの十字架を指しているのでしょう。現代の私たちにも、同じことが言えるのではないでしょうか。今、私たちに欠けているものは、愛なのです。主の祝福を求めて、イエスさまの愛に到達していく者でありたいと心から願います。