20 マルタ

なくてならぬものは

                               ルカ 10:38−42
                               詩篇 119:65−72
T ルカからのメッセ−ジとして

 聖書の人物20回目、今回はルカ10章から、ベタニヤのマルタを考えてみたいと思います。ベタニヤについては何回かお話ししていますが、エルレムから2qほど東にある小さな村です。そこにマルタ、マリヤ、ラザロの3人の姉弟が住んでいました。イエスさまは彼らを愛し、しばしばその家に泊られたようですが、彼らの父親は多分らい病人シモン(マタイ26:6)と言われる人で、その恐ろしい病いをイエスさまから直してもらったのかもしれません。十字架にかかる直前、重い病いにかかり死んで墓に葬られたラザロに、「出て来なさい」と声を掛け、ラザロがよみがえるという出来事が起きました。伝説では、そのラザロが自分の葬られた墓の前に座って、訪れて来る人たちにイエスさまのことを証言したと伝えられています。またその何日か後に、マリヤがイエスさまに 300デナリ(1デナリは当時労働者1日分の賃金)という非常に高価なナルドの香油を注いでいますが、これはイエスさまから「世界中で記念として覚えられる」と言われています。きっと彼らはそれ以前からイエスさまの弟子になっていたのでしょう。

 マルタのこの記事がいつのことか不明ですが、この時も、エルサレムに来られたイエスさまと弟子たちを、一家総出でもてなそうとしていました。マルタはこの家の主婦であり、イエスさまに喜んで頂こうと、一生懸命心を配っています。ところがマリヤはイエスさまの足もとにペッタリ座りこんでお話しを聞き、一向にマルタの手伝いをしようとはしません。忙しさのあまり、マルタはマリヤに腹を立て、イエスさまのところに来て言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」 そんなマルタに、イエスさまが言われます。「マルタ、マルタ。あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、1つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」 この記事は、イエスさまがマルタに、何が大切であるかを教えようとされたものですが、ルカだけが記した記事です。ルカはマルタに自分を重ね合わせているようです。これはまたルカから私たちへのメッセ−ジでもありますが、私たちもとくと考えていく必要があるでしょう。


U 不十分なままでも

 2つのことを考えてみたいのですが、第1に、マリヤがイエスさまの足もとに座ってお話しを聞いていたというところからです。その間、マルタは忙しく働いています。この二人のことで、ルカは自分の信仰の在り方を考えさせられたのではないかと思うのです。彼はこの福音書を、多分ロ−マでパウロと一緒にいるときに書いたのでしょう。パウロの伝道旅行に長い間同行してきたルカです。きっとパウロのそばで、イエスさまのことをたくさん聞いてきたことでしょう。パウロとの出会いがいつかは分かりませんが、彼はパウロの弟子でした。もしかしたら、パウロの導きでイエスさまを信じたのかも知れません。彼はアンテオケの人で、そこでパウロと出会ったと推測する人もいます。イエスさまを信じる信仰は、何よりも聞くことから始まるとパウロから教えられていました。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」(ロマ 10:17)とパウロが言っている通りです。ルカはそのパウロの働きの陰にあって、生活の実務を受け持っていたのではないかと思われますが、医者としてパウロの身体の心配もしていたようです。そんなルカにとって、マルタはまさに自分の分身のようなものでした。彼の気持ちになって、マルタのことを考えてみたいのです。

 マルタは、ベタニヤに到着されたイエスさまを大喜びで家に迎えました。正式な客を迎える時の言葉が用いられていることから、イエスさまは最高のお客さまだったのでしょう。強制されてのことではなく、イエスさまが大好きで、その大好きなイエスさまのために、心から喜んでもてなしたのです。あれもこれもと彼女は欲張りました。それが、喜びであった筈の忙しさの中に、別のものを入り込ませてしまいました。マリヤへの妬みです。マリヤは、彼女が忙しく立ち働いている間ずっと、イエスさまのそばに座ってお話しを聞いていました。私だってイエスさまのところに座っていたいのに、けれどもマルタは主婦でした。もてなしは彼女の責任だったのです。そして、いつの間にか彼女から喜びが失われ、それが彼女の問題となりました。出来ないことは出来なくていい。不十分のままイエスさまをお迎えしても、イエスさまはきっとそのもてなしを喜んでくださったでしょう。信仰とは、イエスさまに完全に仕えていくことではありません。不十分で罪ある者が、イエスさまのあわれみのもとに身を寄せていくことなのです。そのためにイエスさまは、十字架におかかりになってくださったのですから。


V なくてならぬものは

 もうひとつのことを考えてみたいのですが、マルタがマリヤに不平を覚えたとき、彼女はその不平を直接マリヤにはぶつけず、イエスさまのところに言っていきます。普通だったらマリヤに、「少しは手伝いなさいよ」と言うだけで済んでしまったでしょうに、マルタはわざわざ仕事の手を止めて、イエスさまのところにまで言っていくのです。それだけマリヤへの不満が蓄積していたのでしょうか。ここでマルタのために弁明しておきたいのですが、彼女の中で、イエスさまへの信頼のほうが勝ったのでしょう。マルタは直線的に行動する女性でした。彼女がイエスさまのところにいったとき、当然マリヤはそこにいて、マルタのことばを聞いていたと思うのですが、そんなことはマルタの念頭にはなかったようです。もてなすことも抗議することも、彼女はただただイエスさま中心に考えていたのです。長旅で疲れておられるであろうイエスさま一行に、早く食事をして休んで頂きたいと、マルタのもてなしが、イエスさまを中心に考えてのことに間違いないでしょう。なまじ知識人だったルカは、イエスさまのことだけを考えて行動する、そんな直線的生き方にあこがれていたのではないかと思います。彼が師事したパウロも、当時一級の知識人でありながら、その行動は直線的でした。彼は「イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(Uコリント 2:2)と言っています。ルカがこの記事をマルタ中心に描いているのは、その行動に共感を覚えながら、しかし、なお彼女には問題が残ると、自分の問題に重ね合わせながら、イエスさまのことばを受け留めていくことの大切さを証言しているように聞こえるのです。

 そのように、イエスさまに夢中になり、教会に入り浸って、熱心なクリスチャンと人からも思われ、自分でもそうレッテルを張ってしまうようなことがあります。それはそれで非常に純粋なのですが、その純粋さにはしばしば落し穴があります。マルタの怒りはその落し穴でした。信仰は、行動することにあるのではありません。異端と呼ばれるカルト宗教にも、その熱心があります。彼らは純粋です。しかし、たとえイエスさまのことであっても、熱心さが信仰の大切な部分であるというなら、彼らと私たちと何ら変わることがないでしょう。マルタの落し穴は、不満に陥ったというだけでなく、その熱心さにあったのです。ルカが心惹かれながら、なおマルタに問題ありとしたのは、行動することにイエスさまの弟子たる本分を感じていたということです。イエスさまを信じる信仰には、何よりも聞いていく部分、確認していく部分が欠けてはならないと、自分自身に言い聞かせたかったのでしょう。

 きっとイエスさまは、「さあ用意が整いました」と、マルタから呼ばれるのを待っていらっしゃったのでしょう。彼女が仕える女性であることを、イエスさまは十分知っておられました。それはマルタの良い点です。私たちもしばしばマルタのようであり、マリヤのようでもあります。どちらもイエスさまに喜ばれることでしょう。しかし、なくてならぬものはただ一つ、それは私たちの罪のため十字架にかかってくださったイエスさまへの信頼です。それこそ、「私にとって幾千の金銀にまさるものです」(詩篇119:72)と、詩篇の記者の信仰姿勢を覚えていきたいと願います。