2  百人隊長
                          
十字架の救い主を

                                 ルカ 23:44−48
                                 ヨブ 35:5−8
T イエスさまへの期待から

 前回、イエスさまの十字架を背負ったクレネ人シモンを見ましたので、これからしばらく、十字架をめぐる人たちを取り上げることに致しましょう。ルカ23章から、今回はロ−マの百人隊長です。

 イエスさまが十字架につけられたのは、金曜日の朝9時頃でした。息を引き取られたのが午後3時ですから、手足を釘で打ちつけられ、血を流しながら延々と6時間、十字架上で苦しまれたのです。そこはヘブル語でゴルゴタ(ラテン語ではカルヴァリ)、どくろという意味の人間の頭蓋骨の形をした岩山で、罪人の処刑場でした。イエスさまが十字架を背負って歩かれたとされる、ヴィア・ドロロ−サ(悲しみの道)の終点にあるゴルゴタに聖墳墓教会が建っていますが、今、それはほとんど観光名所となっていて、不気味な処刑場という面影はありません。しかし、もう一箇所、これが本当のゴルゴタではないかと考えられている場所があります。「園の墓」と呼ばれる花園の美しい庭ですが、隣接した丘がまさにどくろの形をした岩山で、その南の一角に洞屈の墓があるのです。聖墳墓教会なのか園の墓なのか、真偽のほどは分かりませんが、十字架刑が見せしめの刑罰だったことから、その場所が街道に面しており、通りかかるたくさんの人たちの目に触れやすいようになっていたという記事から、園の墓の方が条件が合っているように思われます。そこはエリコ街道に面しています。

 イエスさまが十字架につけられますと、集まっていたたくさんの人たちが罵り始めました。ルカはそんな罵りを3回も記しています。「あれは他人を救った。もし神の子キリストで選ばれた者なら自分を救ってみろ」「ユダヤ人の王なら、自分を救え」「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」 そこから、彼らユダヤ人たちの、絶望と期待が聞こえてくるようです。ユダヤ人たちは長い間、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ロ−マと外国の支配を受けて、神さまの選民であるという誇りを傷つけられていましたが、そこに、神さまご自身が彼らを助けてくださるというメシヤ信仰が育ちました。そのメシヤ信仰が、もしかしたらと、イエスさまに向けられたのです。それなのに、こともあろうにそのお方が、今、あのむごたらしい十字架で処刑されようとしています。彼らの罵りには、十字架上にいるこの方が、もしかしたら本当にメシヤかも知れない。それなら、今すぐ十字架から降りて来て欲しい。そうすれば何もかもはっきりするではないかと、悲鳴にも似た思いが込められていたように思われます。ここに、期待と裏返しの絶望が顔を覗かせていると感じられてなりません。


U 正しさからの転換を

 人々が悪口雑言の限りを尽くし、わめき叫んでいるその中で、イエスさまは息を引き取られるのですが、ルカはその様子をこう記します。「その時すでに12時頃になっていたが、全地が暗くなって3時まで続いた。太陽は光を失っていた。また神殿の幕は真二つに裂けた。イエスは大声で叫んで言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます』 こう言って息を引き取られた。この出来事を見た百人隊長は神をほめたたえ、『ほんとうに、この人は正しい方であった』と言った」(23:44-47)

 ここでロ−マの百人隊長(ロ−マ軍の中隊を指揮する中堅幹部。総督の直接指揮下にあるということはこの人物がかなり評価されていたと考えられる)が、十字架のイエスさまに向かって、「この人は正しい方であった」と言います。そのことばに焦点を合わせて見ていきましょう。

 恐らく彼は、総督ピラトから命令を受け、この処刑を遂行した責任者だったのでしょう。イエスさま処刑の模様を、ピラトのもとに連行されて来た初めからずっと見ていました。恐らく、彼はいかにもロ−マ人らしく、処刑される者よりも、その者を罪に定め、処刑を執行する者の方をはるかに正しいと考えていたと思われます。現代の私たちにとっても、正しいということの認識は、ほとんど同じでしょう。しかも彼は、世界の支配者たるロ−マは正しいという誇りを持っていました。ルカにはありませんが、十字架刑が決まったイエスさまを、ロ−マ兵たちが叩いたり唾をはきかけたり、紫の衣を着せて「ユダヤ人の王さまばんざい」と嘲ったりしていますが、いばらの冠をかぶせたのも、むち打ったのも彼らでした。彼は、そのように部下たちがすることを、極悪人の受ける当然の報いと思っていたのでしょうか。ルカは「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て……」と、その罵りに兵士たちも加わっている様子を記しています。もしかしたら、彼、百人隊長自身もその罵りに加わっていたかもしれません。そんな彼らの正しさを以て、イエスさまを十字架にかけた筈でした。ところが、イエスさまの一部始終を見て彼は、イエスさまには罪がないと認めるのです。「この人は正しい方であった」と言ったそのことばの中には、〈まさに〉ということばが入っています。十字架のイエスさまを見て、あらゆる行動を決定してゆく彼の人生観そのものを変更せざるを得なかった。それが彼のこの告白ではなかったかと思うのです。私たち自身を変えていく、そのようにイエスさまの十字架に出会いたいと願います。


V 十字架の救い主を

 ルカはギリシャ語を使う海外在住のユダヤ人でしたから、ロ−マ人の「正しさ」を知っていました。だから、この百人隊長の価値観の転換を理解したのでしょう。ルカだけが「この人は正しい方であった」と記録しています。実は、正しさということでは、彼だけではなく、イエスさまを罵り続けたユダヤ人たちも同様でした。「こんなに苦労し生きている俺たちをどうして見捨てるのか」と、期待に応えてくれないイエスさまに向かっての罵りです。そしてそれは、現代の私たちにも、非常に重要な問題でしょう。しかし、自分の正しさを主張する時、私たちは決して神さまに出会うことは出来ないのです。

 ヨブ記にこうあります。「あなたの正しさは、ただ、人の子にかかわりを持つだけだ」(35:8) これは、苦難のヨブが、思いやりに欠ける友人たちに対し自分の正しさを主張した時、年若いエリフが彼をたしなめたものです。ヨブは義人として知られていましたが、しかし、彼の正しさは神さまには通用しないと言うです。人間にとって、どうもこの正しさが価値観の一番の基本であるような気がしてなりません。自分の正しさを主張するならそれは、他の人を認めないことにつながるのではないでしょうか。私たちは、神さまがこのような自分の正しさを受け入れてくださると勘違いするのですが、しかし、神さまはヨブに言われました。「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義をするためにわたしを罪に定めるのか」(40:7-8) 神さまの前で私たちは、決して自分を正しいと主張することはできないのです。聖書は、「すべての人は罪を犯したので神の栄光を受けることができない」「義人はいない。ひとりもいない」「私は罪人のかしらです」と主張してやみません。私たちの正しさは、神さまと私たちの間をさえぎり、人間同士の間にも、問題を引き起こすものであると覚えなければならないでしょう。

 正しさということがルカの意識の中心でした。しかし、マタイとマルコはこれを「この方はまことに神の子であった」と言っています。私たちは、イエスさまがメシヤ王国を建設した偉人だったから信じる、尊敬するというのではなく、イエスさまが私たちの、欲深く、妬みやすく、うそをつき、わがままで利己的な、そんな問題の多い私たちの罪を十字架に背負って死んでくださったと、そのことを信じるのです。十字架に死んで私たちを罪から解放し、私たちを神さまのものとしてくださるイエスさま、その十字架の救い主こそ私の主であると受け入れ、私たちの信仰をささげたいと願うのです。百人隊長の告白の本質は、その信仰であり、それが彼の価値観の転換になったとルカとともに理解し、同じ信仰告白に立って、私たちの在り方から正しさを取り除き、十字架の救い主を見つめる者に変わっていきたいと願います。