19 サマリヤの女(3)

神さまとの和解から

                                ヨハネ 4:27−42
                                詩篇  126:1−6
T イエスさまとの出会いから

 サマリヤの女の3回目です。彼女のことはこれまで、前回、前々回と2回続けて見てきましたが、ヤコブの井戸辺でイエスさまから「わたしに水を飲ませてください」と言われて彼女は、「あなたはユダヤ人なのに、どうして……」とあきれたようにイエスさまを眺めました。やがてその方が「先生」になり、「預言者」になり、ついに「あなたはキリストですか?」というところまで、イエスさまへの尊敬が上昇していきます。この間、弟子たちは食べ物を求めて町に出掛けておりますが、スカルの町まで2q程、弟子たちが食べ物を手に入れて戻って来るまで1時間位あったでしょう。その間に、彼女の態度がこんなにも変わっていくのです。昼の12時頃に人目を避けて、2000年も前に先祖ヤコブが掘ったと伝えられる聖なる井戸に聖なる水を汲みにやってきた彼女、5人もの夫を次々に替え、今一緒にいる男性も彼女の夫ではありません。愛情を求めて男性遍歴を重ね、サマリヤ教団からふしだらな女と除籍されていただろう彼女です。イエスさまはそんな彼女の不幸をいとおしまれ、そして彼女は変わっていくのですが、その変化は、イエスさまの愛情に段階を追って応えていったということでしょうか。イエスさまと出会い、彼女の生き方がどのように変えられていったかを考えてみたいと思います。

 いかにも不貞腐れていた彼女でした。居るべきところからはみ出し、孤独な彼女に、恐らく、慰めの手はなかったでしょう。誰とも仲良くすることが出来ず、誰彼なしに牙を剥いて……、イエスさまに答えた彼女の口調に、そんなとげとげしいものを感じます。しかも彼女は人間と仲違いしているだけでなく、何よりも、神さまから遠く離れていることに絶望していたのではないかと思われます。現代、私たちの回りにもそんな人たちがたくさんいますね。もしかしたら、私たち自身もその一人かもしれません。肩ひじ張っていながら、それでも受け入れて欲しいと願い、でも、素直になることができないのです。彼女がどのように変わっていったかを探ることで、そんな私たちの生き方に、一つの大切な方向が示されるのではないかと期待するのです。


U 水がめを置いて

 ユダヤ人と仲が悪いサマリヤで、手に入れるのは困難だったと思われますが、それでも弟子たちはどうにか食べ物を持って帰って来ました。入れ違いに、彼女は町に戻っていきます。イエスさまとは平気で話しをしていた彼女ですが、慎みを取り戻したのでしょうか、弟子たちの戻ったそこを離れました。しかし、「自分の水がめ置いて」とあります。彼女が2qもの道を、人目を避けながらここに来たのは、聖なる水を汲むためでした。それは、孤独を癒して欲しいという願いの水汲みだった筈ですが、それを放棄しています。イエスさまに出会って、その必要がなくなったのでしょうか。ここに言われる〈町〉には定冠詞がついていますから、きっとこれは彼女の町のことでしょう。ある写本には〈走って〉という言葉が加えられています。

 彼女は大急ぎで町に戻り、町の人たちにイエスさまのことを証言します。「私のしたこと全部を言い当てた人がいます」 彼女のことは、とうからみんな知っていました。そしてそれは、どんなにか彼女の痛みであったことでしょう。彼らが彼女をボイコットしていたというだけはない、彼女自身も彼らと付き合おうとはしなかったのでしょう。そんな心を閉ざした彼女が、進んで、自分の最も触れたくない部分を「言い当てた」と言うのです。彼女にとってこれは、信仰の告白ではなかったでしょうか。そして驚いたことに、町の人たちが彼女のその証言を受け入れるのです。「そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た」とあります。ふしだらな女として見向きもしなかった彼女の言葉を聞いて……。ヨハネは更に証言しています。「その町のサマリヤ人のうちの多くの者が、『あの方は、私のしたこと全部を言い当てた』と証言したその女のことばによってイエスを信じた」と。彼女の中に真剣で真摯なものを感じ取ったからなのでしょうか。これまでは、不貞腐れて人の話しなど聞こうともしなかった彼女、決して自分の心のうちを見せようとはしなかった女が、あんなに真剣に、一生懸命話している。心打たれた人たちが、昼の2時頃、忙しい時間帯だったと思われるのに、ヤコブの井戸まで何qもの道をやって来るのです。〈来て見てください〉と彼女は町の人たちに訴えました。これは、ヨハネがイエスさまを信じる信仰を証言するときに用いる、この福音書の重要なモチ−フです。ペテロもアンデレも、ナタナエルもそうでした。そして彼女自身も、イエスさまのところに来て、イエスさまを見て、そしてイエスさまのことばを聞いて信じたのです。このサマリヤの町に、イエスさまの福音の種が蒔かれました。その発端が、問題の多い、神さまから一番遠く離れていると思われた彼女なのです。イエスさまとの出会いにとって、それはごく些細なことだったのでしょう。


V 神さまとの和解から

 彼らはイエスさまに、自分たちのところに滞在してくれるように頼んでいます。「そこでイエスは2日間そこに滞在された」(40)とあります。急いでガリラヤに行かなくてはならない筈だったのに、その用事を後回しにしてサマリヤに留まり、その2日間を、彼女も加えたサマリヤの人たちと一緒に過ごされました。もはや彼女は仲間はずれではありません。42節に「そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」とあります。イエスさまを信じる信仰の発端であり、第一功労者である彼女に対して、ちょっと冷たいのではと思うのですが、そうではありません。第1に彼らは彼女の証言を心から聞きました。そして、2日間を彼女と共にイエスさまのそばで過ごしたということは、彼女を自分たちの仲間に迎えたということでしょう。第3に、彼らは彼女と同じように、イエスさまから直接に聞いて信じたのです。彼女を模範にしたということでしょう。「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」という彼らの告白は、彼女の告白でもありました。イエスさまに出会ってわずか数時間で、彼女の中に変化が起こりました。これまでの悲しみも孤独も、跡形なく解消していくのです。イエスさまに出会って、ひねくれて、容易に心を開こうとしなかった彼女が、神さまにも人にも素直になったのです。

 詩篇 126篇をご覧ください。「主がシオンの捕われ人を帰されたとき」(1)とあります。これはバビロン捕囚から帰還したときの賛美でしょうが、口語訳聖書では、「主がシオンの繁栄を回復されたとき」となっています。断絶していた神さまとの関係の回復です。ユダヤ人にとって、捕囚からの帰還は、神さまの民としての回復を意味していました。この詩篇の最後は、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」(5-6)という有名なことばで締めくくられています。涙を流しながら生きている人たちが、私たちの回りにどんなに多いことでしょう。しかし、その涙が回復につながっていかない現代です。涙からの回復には、神さまからの助けが必要です。彼女はたくさんの涙を流しました。そして、その涙は神さまへの祈りになっていったのです。聖なるヤコブの井戸に聖なる水を汲みに来たのは、彼女の祈りだったと感じます。イエスさまが彼女に注がれた愛情は、彼女への神さまからの応えだったのでしょう。「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ」とありますが、彼女がこんなにも変わったのは、神さまからの恵みがあったからです。何よりも、彼女は神さまと和解したのです。その和解から、町の人たちとの交わりが回復され、彼女の悲しみが喜びに変わりました。私たち自身も変わらなければなりません。もし変わるなら、きっと回りにいる人たちにもその喜びが伝わっていくでしょう。神さまとの和解から生まれるものは愛であり、喜びであり、望みであると覚えて頂きたいのです。