18 サマリヤの女(2)

心を開いて主に

                                ヨハネ 4:16−26
                                詩篇  95:6−8
T 神さまから遠く離されて

 サマリヤの女の二回目です。前回は1-15節から、「先生。私(の心)が渇くことがなく、もうここまで(聖なる水を)汲みに来なくてもよいように、その水を私にください」と、彼女が少しづつイエスさまに心を開いていく様子をみてきました。彼女のことを続けてみたいと思うのは、その抱えている問題が、大切なところで、現代の私たちに重なってくるように思われるからです。

 昼の12時頃に、人目を避けながら聖なる水を求めてやって来た彼女のことを、もう少し想像してみましょう。イエスさまへの態度が「あなた」から「先生」に変化してきますが、まだ本気でイエスさまにぶつかってはいないように感じられます。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われ、「私には夫などない」などとと素っ気ないのです。彼女は、抱えている問題の解決を確かに求めていたと思うのですが、「わたしが与える水は永遠のいのちに至る」と言われてその答えは、「持っているなら出してごらんよ」と半分茶化しているようにも聞こえます。真実の愛を求めて、彼女は男性遍歴を重ねていたのでしょう。そんな彼女を、サマリヤ教団はふしだらな罪の女として、礼拝への参加を拒否していました。町全体が一つ家族でもあるかのような古代社会のことです。礼拝を守ることが、その社会の一員として認知される重要な要件でしたし、それが神さまの祝福を頂くといういのちの証しでもありました。その祝福が拒否されたということは、神さまを中心とするその町の住民からボイコットされ、もはや死んだも同然だったのです。それは、マタイやザアカイやマグダラのマリヤなど、イエスさまに出会ったたくさんの人たちに共通する問題でもありました。きっと彼女は、そんな不幸を抱えた悲しみから、ヤコブの井戸の聖なる水を求めることで、回復が出来るかもしれないと考えたのではないでしょうか。誰にも見つからないように水を汲みに来るほど、深く傷ついていた彼女の孤独は、神さまを見失っている現代人の孤独に重なって見えるのです。


U 回復者を求めて

 私たちにとっても、自分の問題と正面から向き合うことは非常にむつかしいことです。向き合わずにお茶らけ、それがストレスになって、ある時爆発するのです。今、そんなストレスに起因すると思われる事件が多発しています。これも人間の弱さでしょうか。それだけ悩みも痛みも孤独も深い現代です。きっとこのサマリヤの女も、そんな弱さ故のやけっぱちな状態だったのかも知れません。

 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」 突然、イエスさまは話題を変えられます。心を開いていかない彼女に、自分の問題と正面から向き合わせようとされたのかも知れません。彼女はぶっきらぼうに「私には夫はありません」と答えます。しかしそこに、「持っているのなら出してごらんよ」とふて腐れたのは違う、彼女の本音がにじみ出ているようです。それを引き出されたのがイエスさまだったということもあるでしょうが、ここに、彼女の悲鳴のようなものが聞こえてきます。そんな彼女にイエスさまは鋭く、しかし、暖かい洞察をもって応えられます。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です」 「悲しかったんだろうね」という慰めが伝わってきます。彼女はその優しさに警戒心を解いたのでしょうか、更に態度が変化します。「先生。あなたは預言者だと思います」 この預言者という言い方には、ちょっと注意が必要です。サマリヤではユダヤとは違って旧約聖書のモ−セ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)しか信じていませんでした。ですから、預言者とはイザヤとかエレミヤなどではなく、「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう」(申命記 18:18)とあるその預言者を指しています。それは、サマリヤでは回復者(タ−ヘ−ブ)と呼ばれますが、少々違いがあっても、メシヤ・救い主なのです。彼女は、イエスさまがそのタ−ヘ−ブではないかと思ったのです。こういった意識は、私たち日本人には欠けています。日本人の代表的な宗教観は、困ったときの神頼みというもので、問題の解決は求めますが、ただそれだけでしょう。しかし、救いを求め、慰めを求め、解決を求めるとすれば、それを与えてくださるお方がどなたかということが、はっきりしなくてはなりません。本当に大切なことは、解決を与え、救いを与えてくださるお方ご自身と出会うことです。現代の私たちに、その点がどうも欠落している気がしてなりません。彼女と一緒にタ−ヘ−ブ、救い主を求めていきたいのです。


V 心を開いて主に

 イエスさまをタ−ヘ−ブであろうと思った彼女は、こんな質問をしました。「先生。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは礼拝すべき場所はエルサレムだと言っています」 サマリヤ教団はゲジリム山に彼らの神殿を建てていました。きっと彼女は、教団から追放されている悲しみを、そんな質問に託したのでしょう。本当は〈私は神さまを礼拝したいのです〉と言いたかったのです。できるなら、あなたについて行ってエルサレムで神さまを礼拝してもいいのですけれど……。イエスさまは、そんな彼女を受け留められました。わたしを信じなさい。神さまを礼拝するのはゲジリム山でもなくエルサレムでもない。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」

 「神は霊である」、これは誤解が多いので、少し説明しておきましょう。「神は霊である」と言うとは、あらゆるところに偏在し給う、見えない神さまを考えがちですが、そうではありません。これは神さまのエネルギ−を言っているのです。つまり、神さまが私たちの主でありたいと望み、その実現のために力を尽くして働かれる、その神さまのエネルギ−が霊と言われるのです。そして、その神さまの霊が働くときに〈時〉が来ます。イエスさまは、「この山でも、エルサレムでもない所で」真の礼拝が行われる時が来たと言われました。「今がその時です」これはイエスさまご自身の〈時〉を指しています。〈十字架とよみがえり〉の時です。そのイエスさまこそ、彼女の、そして私たちの救いであり、神さまが私たちの主になってくださったという証しです。ですから、イエスさまに罪を贖われた者の「信じます」という告白こそ、霊とまことによって神さまを礼拝することの中心なのでしょう。その救い主・イエスさまが、このサマリヤの女に向かって「わたしがここにいるではないか。あなたのそばに」と暖かく包み込んでくださったことが、「今がその時である」という彼女への宣言になったと理解して頂きたいのです。パウロと共に「見よ。今が恵みの時、今が救いの日です」と告白しつつ聞いていきましょう。

 彼女のイエスさまに向かう態度が、更に変化しました。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」〈あなたはキリストなのでしょう〉と言ったのです。彼女はイエスさまに心を開きました。そして、イエスさまもご自分こそまさにそのキリストであると、彼女にとって最高の慰めとなるお方であることをはっきりさせたのです。「あなたと話しているこのわたしがそれです」 詩篇に「今日、御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」(95:7-8)とあります。私たちを十字架の救いに招いてくださるお方に向かって、心を開いていきたいのです。現代の私たちも、このサマリヤの女のように、人との交わりからはみ出して、やけになり、神さまから遠くに離れ、救いのない絶望を感じて……と、誰もがそんなところを抱えているのではないでしょうか。しかし、解決の主がおられるのです。ご自分のいのちを十字架につけてまで私たちを愛してくださったイエスさま、その慰めに満ちた主が私たちのところに来られ、私たちに語りかけ、救いに招いてくださるのです。心を開いて、その招きに応えていこうではありませんか。