17 サマリアの女(1)

もっと愛をください

                                ヨハネ 4:1−15
                                ヨブ 19:19−25
T サマリヤ人の悲しみの中に

 イエスさまと出会ったサマリヤの女ですが、非常に長いところですので、3回に分けて見ていきたいと思います。イエスさま公生涯の初期のころと思われますが、外国人女性であるサマリヤの女への、イエスさまの暖かい心が伝わってきます。これを書き記したヨハネの証言としても聞いていきたいのです。

 サマリヤというところは、ユダヤ地方とガリラヤ地方との間にある〈外国〉でした。サマリヤは旧約時代に、北イスラエル王国の中心地として栄えていましたが、BC.722年にアッシリヤ軍の侵攻によって滅亡した時、外国人との雑婚が行われ、混血民族になってしまいました。ところが彼らは、依然「北イスラエル王国の末裔」と意識しています。ユダヤ人たちがバビロン捕囚から帰還してエルサレム再建をする時、自分たちにも手伝わせてくれるよう申し出ましたが、ユダヤ人はこれを拒否しました。その少し後に、総督ネヘミヤが「外国人妻を持つ者は離婚せよ」と厳しい布告を出した時、サマリヤ総督サンバラテの娘をめとっていた一人の祭司がユダヤを追放され(ネヘミヤ13:28)、サマリヤは彼を擁立してゲジリム山に神殿を建て、サマリヤ教団を打ち建てるといった事件が起こりました。彼らの対立は、民族的問題に加え、宗教的な面でもこじれていったのです。ユダヤ教や、今注目のイスラム教が、世界の紛争の種になっていることはご存じでしょう。そしてキリスト教も、これを宗教的営みと考えますと、大きな紛争の火種になってきたことを忘れてはなりません。人間であるがための拘りとも感じますが、イエスさまを信じる信仰は、断じてキリスト教という人間の宗教の枠に閉じ込められていいものではないと思うのです。

 彼らの関係がこじれた殆どの原因は、ユダヤ側にあったようです。しかしユダヤの一部としか見られられていない小数民族サマリヤは、ひたすら忍耐し続けていました。そんな屈辱の思いが、サマリヤ教団に実を結んでいったのでしょうか。そして、それが一層紛争の種になっていきました。「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである」(9)とは、ユダヤ人・ヨハネの痛みでもあったでしょう。ユダヤ地方とガリラヤ地方とを結ぶ最短距離はサマリヤの道でしたが、ユダヤ人はそこを嫌って、海沿いやヨルダン川沿いを迂回していました。ところがイエスさまは何か急いでおられ、ガリラヤへ行かれるのに、「サマリヤを通って」(4:3-4)行くというのです。そこでこの女性と出会いました。


U ヤコブの井戸のそばで

 スカルの町に来られた時、「6時頃」多分、昼の12時ころでした。ヤコブの井戸と伝えられるところで一休みされます。弟子たちは早速食べ物を捜しに町に行きますが、そこへサマリヤの女が水を汲みにやって来ます。喉が渇いたのでしょう。「水を飲ませてください」と、彼女との会話が始まりました。

 慎み深い女性なら、返事をしない場面です。ところが彼女は、好奇心もあってか、つい返事をしてしまいます。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に飲み水をお求めになるのですか」と、彼女の反応は当然冷たいものでした。しかしイエスさまは、彼女の不幸に関心を寄せられたのでしょう。その彼女の不幸ですが、スカルの町からこの井戸まで約2q、エバル山の麓の町ですから飲み水に不自由なかったと思うのですが、彼女はわざわざここまで水を汲みにやって来ました。きっと、聖なる井戸の聖なる水を求めて来たのでしょう。たった一人で、しかも昼の12時ころという誰もいない時間帯をねらって……、人目を避けながらです。好奇心もですが、敵にも等しいユダヤ人に向かい、男を男とも思わないそんな彼女の態度に、自堕落で不幸な生活を送っている彼女の人生が浮かび上がってくるようです。そんな彼女にイエスさまは言われます。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」 彼女の態度が変化します。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです」 〈あなた〉から〈先生〉に呼び掛けが昇格しました。イエスさまをユダヤ人のラビであると思ったのでしょう。くむ物というのはコップかバケツだったのでしょうが、「付き合いをしない」という言葉の〈一つのものを共に使う〉という原意から、ユダヤ人がサマリヤの女のコップを一緒に使うなどとんでもないことでした。それを敢えて無視できる方、並のユダヤ人とは全く違う話しの分かる方、この方になら自分の思いを聞いて頂くことができるかもしれないと思ったのでしょうか。


V もっと愛をください

 しかし、彼女は慎重でした。本当に聞きたいのは別のことなのに、まだ水のことに拘っています。イエスさまはその気持ちに逆らわず、水のことから問題の核心へとゆっくり会話を進めます。「この水を飲む者はだれでもまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」

 「生ける水」 水の豊富な日本では何のことか分からないかも知れませんが、中東の民族で、旧約聖書に親しんでいたユダヤ人やサマリヤ人には容易に理解できたことでしょう。エジプトを脱出してきたイスラエル民族が、40年もの間シナイの荒野をさまよっていたときに、食べ物や水をくださったのは神さまでした。砂漠の民にとって水はまさにいのちの源ですが、それは神さまからの恵みであり、賜物なのです。サマリヤには結構緑もあって、砂漠というわけではありませんが、きっとこの女性は、自分の不幸の中にその砂漠を見ていたのかも知れません。イエスさまは彼女のことを〈あなたには5人の夫がいた。しかし、今一緒に暮らしているのは本当の夫ではない〉と、鋭く見抜きます。きっと彼女は愛に飢えていたのでしょう。人間というものに絶望し、何よりも神さまから遠くに離れて、彼女の真の問題はそこでした。ひとりだけでこんな時間に、聖なる井戸に聖なる水を求めて来るなど……。自堕落な女として、サマリヤの教団は彼女を受け入れなかったのでしょう。そんな彼女の悲しみが、ここに現われているような気がします。イエスさまはそんな彼女の悲しみを理解し、思いやってくださったのです。わたしが与える水を飲む者は決して渇くことがない。そして、その人のうちで泉となり、永遠のいのちとなっていく。そんな水を欲しくはないかとイエスさまは彼女に問い掛けます。彼女はきっと、心の渇きを癒し、神さまからの愛を回復していったのではと想像します。

 彼女が5人もの夫と離婚、再婚を繰り返していたのは、きっと彼女自身に問題があったからなのでしょうが、夫たちが彼女を愛していなかったという気がしてなりません。愛されることを望みながら、愛されない彼女の絶望が、痛いほど伝わってくるようです。「先生。私が渇くことがなく、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私にください」 もっと愛をと、これは彼女の悲鳴なのでしょう。「イエスさま。私の心がこれ以上愛に渇くことがなく、私を受け入れてくれない社会(サマリヤ教団)などに頼らなくてもいいように、本当の愛を私にください」と。

 現代という時代にも、このサマリヤの女のように、もっともっとと愛を求めてやまない人たちがいます。愛し愛されることがどんどん少なくなっていて、その状況はサマリヤの女の時代と少しも変わらないように思います。絶望している人の悲しみを思いやる者はなく、孤独な人生を更に孤独に追いやっています。しかしそこに、ご自分を十字架につけてまで私たちを愛してくださったイエスさまがおられることを覚えて頂きたいのです。このサマリヤの女と共に、イエスさまの中に、永遠のいのちへの愛の水がいっぱいに溢れていると聞いていきたいのです。