16 ナタナエル

恵みを頂いて

                                ヨハネ 1:43−51
                                イザヤ 30:18−19
T 最初の弟子たちの中に

 今回はヨハネ1章から、使徒の一人、バルトロマイかもしれないとされるナタナエルです。イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、アンデレやペテロなど何人もがイエスさまにお会いして弟子になりましたが、その頃の出来事です。ナタナエルは、友人ピリポと一緒にヨルダン川のそばに来ておりました。ヨハネから洗礼を受けたかったのかも知れません。しかし、そこでイエスさまにお会いし、まずピリポが信じてイエスさまの弟子になります。そして、ナタナエルに言います。「来て、そして、見なさい」「私たちは、モ−セが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(45) ところがナタナエルは「ナザレから何の良いものが出ようか」と本気にしません。そんなナタナエルが、イエスさまを信じたのです。恐らく、ナタナエルとイエスさまのこの出会いの中に、ヨハネ福音書全体に関わる中心的メッセージが込められていると思うのですが、そのあたりのことを聞いていきたいと思います。

 「ナザレから何の良いものが……」とあります。これは、ことメシヤに関して、ユダヤ人たちに周知のことでした。ミカ書にメシヤはベツレヘムから出るとあるからです。それに、彼はカナの人(ヨハネ21:2)でしたから、ナザレのことを良く知っていたわけです。カナはナザレからバスで10分くらいの隣町、どちらも小さな村です。イエスさまを見知っていたとしても不思議ありません。大工ヨセフの息子、ナザレではイエスさまをそう見ていました。そのイエスさまを、バプテスマのヨハネ以上のお方、もしかしたらメシヤかも知れないと紹介されるのです。ここに、ナタナエルの戸惑いが伝わってくるようですが、懐疑的ということではきっと、現代の私たちはナタナエル以上でしょう。そんな私たちが変えられていくためには、ナタナエルがそうであったように、私たちもまた、このイエスさまに出会う以外にないでしょう。


U いちじくの木の下で

 ここで、ナタナエルが懐疑的だった理由を考えてみましょう。大勢の人たちが、ヨルダン川でバプテスマを授けているヨハネのところに来るのは、当時のユダヤ人たちが、不安や絶望の中にあったことを意味します。彼はきっと、それを人一倍敏感に感じていたのでしょう。ピリポのことばの中にある「モ−セが律法の中に書き」「預言者たちも書いている」はメシヤを指したものですが、混乱と不安の中で、彼らユダヤ人たちは神さまのその約束のお方をずっと待ち続けていたのです。しかし、最後の預言者マラキからすでに400年、未だにその方はおいでになりません。バプテスマのヨハネをそれと期待しましたが、彼は違うと言うのです。ナタナルの懐疑は、待ちくたびれてのことだったのかも知れません。「いちじくの木の下に座っているのを見た」と言われることに、特別な意味はないのかも知れませんが、その広い葉が茂るいちじくの木陰は、古くから憩いの場所になっていたようです。彼はそこでひとり静かにものを思い、国を憂えていたのではと想像します。「我々が神さまの選びの民であることを、あの異邦の民ロ−マのもとで正しく守っていくことが、果たして出来るだろうか」 ロ−マ皇帝ティベリゥスは、ユダヤ人には当時例外と言えるほど寛容な政策を取っており、ディアスポラなど進歩的なユダヤ人たちは、それに満足していました。しかし逆に、頑固なユダヤ教徒である保守的な人たちには、それが忘国の兆しに見えたのでしょう。強盗団の横行など社会的混乱も長く続いていて、祖国の者でさえ神さまのことを忘れている……。神さまとユダヤ人の深い断絶、これこそ彼がいちじくの木の下で悩み、考え、不安になっていた本当の原因ではなかったかと思うのです。

 イエスさまから「あなたは本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。あなたがいちじく木の下に座り、悩んでいるのを見た」と言われて、彼は、驚きながらも感激したことでしょう。国を憂えるという感覚は、その向かった方向が問題でしたが、ほんの少し前まで、日本で誰もが抱いていた感覚でした。しかし、ことは別にして、そんな熱い心を見失っている現代の私たちの方が、はるかに問題ではないでしょうか。誰も信用しないという現代の風潮は、ますます広がっているようです。現代人は懐疑的であるなどと分析して、済ましていいことではない。今は、求めることにためらっている時ではありません。心から真剣に、救い主にお会いしたいと願って頂きたいのです。


V 恵みを頂いて

 ナタナエルは、イエスさまから、彼の中に芽生えていたイスラエル人としての思いを指摘され、もはや懐疑的ではいられませんでした。イエスさまの前にひれ伏し、信仰の告白をします。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49)と。当時、ユダヤという呼び方が普通であったのに、イエスさまは彼のことを「本当のイスラエル人です」と言われました。それは、ナタナエルの中の、神さまへの思いを汲み取ってのことでしょう。〈イスラエル〉とは、神さまの選びの民を意識しての言い方、彼は神さまの前に立っていたのです。

 現代のクリスチャンという意識の中に、ともすれば、神さまの前でというより、教会という人間集団の中でのクリスチャンという意識が多いように感じるのですが、それは、教会が人間社会の中に組織化されていくことの一つの大きな問題点であると感じます。信仰とは、神さまのところに来て、神さまを見ることではないでしょうか。ヨハネが「来て、そして、見なさい」と、何回もイエスさまのところに来ること、見ること、信じることを組み合わせて繰り返し、彼の福音書の主要なテ−マにしているのですが、そのところが私たち現代の信仰者の視点から欠落しているのではと感じています。日本の現代という時代を考えますと、私たちの創造者である神さまに近づこうとしないばかりか、見ようともしないし、考えようともしないのです。神さまがいらっしゃることすら念頭にありません。驚くことに、自分以外の人を見ようとしていないと思われるほどです。ひたすら見つめているのは、お金であり、贅沢な暮らしという即物的なもの、つまり自分しか見ていないと感じる場面が多すぎるように思われます。そんな生き方が、現在の、すでに行き詰まったと多くの人たちが感じている、私たちのこの社会状況を生み出したと言うのは、言い過ぎでしょうか。

 しかしナタナエルは、すでにそのような状況下にあったユダヤ人社会で、混乱と不安の中にいる同胞たちを憂え、神さまご自身の、救い主のおいでを心から願っていました。そのナタナエルが、イエスさまにお会いして告白するのです。このナタナエルの告白は、新約聖書中、ペテロやトマスと並ぶ重要な信仰告白、記念碑として覚えられていいでしょう。彼は、当時のユダヤ人が、武力による解放者という意味を込めて呼んだ、メシヤというあいまいな言い方を突き抜け、神さまの民・イスラエルの本当の救い主イエスさまの前にひれ伏しました。「あなたは神の子、イスラエルの王です」と。彼は心から神さまを見つめていました。しかし、本当は神さまがナタナエルを見ていてくださったのです。ナタナエルとは「神の賜物」とか「神与え給う」という意味です。懐疑的であったナタナエルがイエスさまを信じたことは、神さまの恵みから出たことであったと納得します。イザヤ書に「主はあなたがたを恵もうと待っておられる」(30:18)とあります。イエスさまから「あなたはさらに大きなことを見る」と言われたナタナエルは、もしかしたら使徒バルトロマイとして、神さまの御国への門、道となられた十字架とよみがえりのイエスさまを見届けたのかも知れません。懐疑的な人の多い現代の中で、私たちも同じように十字架の恵みのお方を見つめていきたいと願います。本当は、その恵みあるお方が、今、あなたを見ておられるのです。そのお方に、「あなたこそ私の救い主です」と、私たちの心からの信仰を捧げていこうではありませんか。
 前回、エリコの町でイエスさまにお会いし、「先生、目が見えるようになることです」と救い主への信頼と期待を伝え、その目を直して頂いたバルテマイのことを考えてみました。そのバルテマイの決心に先立って、イエスさまに出会ったザアカイがいます。今回はそのザアカイを取り上げましょう。彼がイエスさまに出会って変えられたことから、バルテマイのイエスさまへの思いが膨らんだのだろうと想像しますが、ルカだけがこれを記録していますので、ルカの思いも合わせて見ていきたいと思います。