15 ザアカイ

失われた人を

                             ルカ  19:1-10
                             エゼキエル 34:11-16
T 取税人のかしらザアカイ

 前回、エリコの町でイエスさまにお会いし、「先生、目が見えるようになることです」と救い主への信頼と期待を伝え、その目を直して頂いたバルテマイのことを考えてみました。そのバルテマイの決心に先立って、イエスさまに出会ったザアカイがいます。今回はそのザアカイを取り上げましょう。彼がイエスさまに出会って変えられたことから、バルテマイのイエスさまへの思いが膨らんだのだろうと想像しますが、ルカだけがこれを記録していますので、ルカの思いも合わせて見ていきたいと思います。

 「それからイエスはエリコにはいって、町をお通りになった。ここにはザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった」(ルカ19:1-2) 取税人のかしらで金持ちということですが、彼はロ−マへの税金を徴収する請負人で、かしらというのは、何人かでチ−ムを組んでいたための言い方でしょう。ロ−マは納税の責任を彼らに負わせ、期限が来たときに払うべき金額に満たないと、彼らは自分の家を売ってでもその工面しなければなりませんでした。それで彼らは、普段から多め多めに取り立てて、自分のふところが決して痛まないようにすることを忘れなかったのです。それが「金持ち」ということの正体なんですね。ザアカイはエリコという豊かな土地の、取税人チ−ムのヘッドだっただけに、一層金持ちになっていました。当然、町の人たちからは「泥棒」とか「罪人」と嫌われていたのですが、「彼はイエスを見ようとしたが、背が低かったので群衆のために見ることができなかった」とあります。余程背が低かったのでしょうか。背丈のことまで取り上げられて、チンチクリンの罪人というのが彼の評判だったのでしょう。もしかしたらルカは、このザアカイ自身か、それとも彼のことを良く知っている人に会ったことがあるのかも知れません。嫌われ者だったザアカイの人となりを直に聞いたとしたら、ルカは、彼が何に対してどんなに悩んでいたか、その思いを自分のことのように感じつつ、ザアカイのことを取り上げていったのではないかと思うのです。


U 神さまからも遠く離れて

 イエスさまが来られたと聞いて、ザアカイは大急ぎで街に出て来ました。もう人垣が出来ています。どんなお方なのか一目見たいと思ったのに、背が低いために見えるのは人の背中ばかりです。人垣をかき分けて、前に出てゆく勇気はありません。そこで、「イエスを見るために前方に走り出て、いちじく桑の木に」登りました。いちじく桑の木というのは原産地アフリカの高さ15mにもなる常緑の広い葉が生い茂る大木で、いちじくではないそうです。太い根元が捻じれて、枝がたくさん出るので登りやすいと「聖書の植物図鑑」にありました。その大木の葉の陰に隠れてなら、ゆっくりとイエスさまを観察できる。しかも、町の人たちからもイエスさまからも自分は見られない……。こんなことには知恵がまわるザアカイです。金持ちになった理由が分かるような気がしますが、そんなところをザアカイは、密かに悩んでいたのかと思われます。その悩みをイエスさまに聞いて欲しかったのです。これは想像ですが、イエスさまは度々エルサレムに来ておられ、エリコにお泊まりになることもたびたびでしたから、互いに見掛け、覚えていたとしても不思議ではありません。イエスさまはザアカイの名前をご存じでした。それなのに彼は、イエスさまが「どんなお方なのか」を確かめたいと、こっそりと木に登るのです。それほど彼の悩みが深く、絶望の淵に立っていたのでしょうか。「彼は取税人のかしらで、金持ちであった」とは、彼の悩みへのルカの代弁と思われます。彼も生粋のユダヤ人でした。それなのに異邦人扱いをされています。「罪人」と言われるのは、ユダヤ人社会からボイコットされ、シナゴクで礼拝を守ることが出来なかったからです。彼がそれでどんなに傷つけられていたか、伝わってくるようです。実際、彼は不正を行なっていたでしょうし、彼がユダヤ人社会から切り離されていたのはそのためです。彼の悩みは、一つに、そのことからの回復でした。しかし、もう一つ、彼にとって更に深い傷からの回復という課題があったのではないか、人からばかりではなく、神さまからも遠く離れた者であると感じていたのではないでしょうか。だからこそ、彼は今、神さまの前に出たいと願っているのですが、しかし、出ることができません。神さまからの救い主・メシヤと思われるイエスさまを見たいと願いながら、それでもイエスさまに見られないように木の葉の陰に隠れてと、ここに彼の絶望のようなものを感じます。そこに救いがあるのではと期待しながら……。


V 失われた人を

 写真を見ますと、葉の陰に隠れるとすぐには見つけられないほどの大木です。しかしイエスさまは、まるでそこでザアカイが待っていたかのように立ち止まり、声をかけられます。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。今日はあなたの家に泊まることにしてあるから」 びっくりしたでしょうね、ザアカイは。「なぜお分かりになったのだろう。しかも名前まで」 しかし彼は、今日、自分の家に泊まると聞いて、大喜びで急いで木からすべり降り、イエスさまを自分の家に迎えました。そこからザアカイは変わり始めます。彼はきっと固く決心したのでしょう。食事中だったと思いますが、立ち上がって言います。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」(8) これは、こうした場合の要求をはるかに超えたものでした。民数記 5:7に、罪を犯した者は「その罪過のために総額を弁償する。それに5分の1を加えて、当の被害者に支払わなければならない」とありますが、この時代には4分の1になっていたようです。それが4倍というのは、羊泥棒に対して定められた弁償(出エジプト22:1)を、厳しく自分に適用したためかも知れません。ちょっと考えてみました。ほんの少し前のことですが、ペレヤ地方で若い役人がイエスさまのところに来ました。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(18:18) いろいろなやりとりのあとで、イエスさまが言われました。「あなたの持ち物を全部売り払って貧しい人々に分けてやりなさい」 しかし、ここでザアカイは、財産の半分、騙し取ったものは4倍にして返すと言うだけです。ザアカイにはまだ相当なものが残っていたと思われますが、イエスさまはそれを問題にはせず、むしろ「きょう、救いがこの家に来た」と喜んで受け入れられるのです。ザアカイの決心を、尊いこととされたからなのでしょうか。

 それは、イエスさまからザアカイへの祝福でした。エレミヤ書に「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる」(29:13)とある通り、彼は懸命に救い主を求めました。信仰とは神さまご自身を見つめることです。時には教会さえも、「その他」のことではないでしょうか。そこに「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから」と打てば響くような主の応えがあるのです。主を捜し求めるなら必ずお会いできることを、私たちも心に刻み込んでおきたいと願います。

 そしてここに、もうひとつのメッセ−ジが聞こえてくるようです。ザアカイのことを心に刻みながら、これを必ず証言しようと願った、ルカ自身の思いがここに現れていると感じられるからです。エゼキエル書に「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」(34:16)とありますが、本当は、ザアカイが主を見つけたのではなく、イエスさまがザアカイを捜し出したのです。きっと、ルカ自身も、そのように主に見い出された者であったという思いを強く持っていたのでしょう。イエスさまは「失われた人を捜して救うために」来られたお方でした。どのようにして? 私たちを鋭く洞察しておられるだけでなく、十字架に苦しみ抜かれたその痛みをもって、私たちを包んでくださるのです。もしあなたが、人に受け入れられない孤独を感じておられるなら、どうぞこの主を見つめて頂きたい。主は必ず祝福し、その孤独を癒してくださるお方ですから。