12 イエスさまの母マリヤ・2

主への信頼を

                              ヨハネ 2:1−11
                              エレミヤ 31:15−17
T ガリラヤのカナで

 聖書の人物、しばらくイエスさまと出会った人たちを見ていますが、今回はイエスさまの母マリヤです。マリヤの記事は、ほとんどイエスさまご降誕時に集中しているのですが、そうではない彼女のことを、ヨハネ2章、ガリラヤのカナの出来事から見ていきたいと思います。

 カナは、イスラエル北部の美しいガリラヤ湖から山へだいぶ入ったところにあります。曲がりくねった山道を、バスで40分くらいでしょうか、山の斜面にへばりついたような小さな村でした。もう少し先まで行きますと、そこはマリヤがヨセフと暮らしていたナザレです。ナザレからの帰り道、私はバスを降りてみました。バスの中からは何もない寒村に見えたそこカナに、ヨ−ロッパ風の大きな美しい教会がありました。ウエディング・チャ−チというのだそうですが、丁度そこに観光バスでどこかの国の団体さんが到着、閉まっていた門が開きましたので、私も一緒に入れてもらいました。そこに、イエスさまが水をぶどう酒に変えられたという水がめが2つ置いてありました。マリヤの記事の舞台に、いきなり上がった気分でした。


U イエスさま奇跡の発端に

 「それから3日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた」(1)とヨハネ2章の記事が始まります。3日目というのは、いつから数えてのことか分かりませんが、多分、ガリラヤでのイエスさま活動の初期の頃なのでしょう。イエスさまと弟子たちがそこに招待されています。そこには、多分、招待客ではないマリヤも来ていました。マリヤがイエスさまのところに来て「ぶどう酒がありません」と訴えていますが、それは、彼女がこの婚礼の裏方を指揮っていたからと考えられています。もしかしたら、彼女の親戚か、親しい人の結婚式だったのかも知れません。ともかくこの記事は、ぶどう酒が無くなったとマリヤがイエスさまに訴え、汲ませた水をイエスさまがぶどう酒に変えたというものです。いくつか注目したいところがあります。

 その辺りは古くからぶどう酒の産地でしたから、何かというと飲み、その量も半端なものではなかったようです。その飲んべえたちが、結婚式というとまた格別なのでしょうか、何日も何日も浴びるほど飲み続けるのです。招待する側(花婿)も当然それを承知していましたから、ぶどう酒は大量に用意していました。ぶどう酒が途中で足りなくなるなど、大変不名誉なことでしたが、ところが、その大量のぶどう酒がなくなってしまうのです。これは大変ということで、いろいろ探し回ったのでしょうが、しかし、小さな村のこと、ありったけのぶどう酒がこの結婚式のために持ち寄られ、もうどこを探しても見当たらないのです。困り果てて相談を受けたマリヤが、イエスさまのところに来ました。

 イエスさまが目をつけたのは、「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ80gから 120g入りの石の水がめが6つ置いてあった」その水がめでした。「水がめに水を満たしなさい」 カナに行って気がついたのですが、カナは山の斜面にある村です。近くに川はなく、ずっと下のほうに深い谷がありましたから、生活水はそこから汲み上げていたのでしょう。しかし、80gから 120gの水がめ6個というこれほど大量の水を、〈ぶどう酒が無くなった〉という非常時に、よくもまあ意味も分からないまま、せっせと汲み上げてきたものと感心しました。その大量の水が良質のぶどう酒に変わったという不思議は、一つにその単純な、「従った人たち」に起因すると思えます。そして、その発端は、マリヤから起こりました。彼女もこの奇跡の主人公の一人なのでしょう。

 ここにあるマリヤのことばは2つだけです。ひとつはイエスさまに言ったことば、「ぶどう酒がありません」、もうひとつは、手伝いの人たちに言った「あの方が言われることを何でもしてあげてください」です。この2つのことばを通して、マリヤのことを考えてみたいのです。


V 主への信頼を

 マリヤのことばを考える前に、30才までのイエスさまのことを考えてみましょう。ヨセフは早くに亡くなったようですが、農作業などの道具を作る大工職人でした。長男であるイエスさまには、早くからその仕事を教えていたようです。「わたしのくびきは負いやすい」とイエスさまが言われますが、イエスさまの作るくびき(農作業をする2頭の牛を繋ぐもの)は使いやすく、農作業がはかどるという評判を得ていたものと思われます。それだけ自分の仕事に打ち込んでいたのでしょう。ヨセフに代わる一家の大黒柱として、マリヤの頼りがいあるイエスさまでした。そんなマリヤとイエスさまを中心とした、貧しいけれども暖かいナザレでの家庭が想像されます。

 そんなマリヤでしたから、「ぶどう酒がありません」と言ったのは、どうにかして欲しいというのではなく、いつものように淡々と、イエスさまに事実を言っただけだったように聞こえてきます。多分、イエスさまはこれまでにも、マリヤの言うことを聞き、ずっとその要求に応えてこられたのでしょう。イエスさまが優しかったこともあるでしょうが、それは、マリヤといっしょに暮らして、大きく育ったものではないかと想像されます。イエスさまが愛の人であることを、私たちは神さまご自身として当然であると思ってしまうところがありますが、しかしイエスさまは、赤ちゃんのときから、このマリヤの子として育てられたということを忘れてはなりません。人の子としてマリヤに育てられている間に、イエスさまの中に大きく成長したものがたくさんあって当然です。マリヤへの愛はその中で育ったものでしょうし、イエスさまを育てていく中で、マリヤの中にも、イエスさまへの愛が大きく膨らんでいったと考えて良いでしょう。それは、私たちの次元と何ら変わることはありません。だからここには、マリヤという名前ではなく、何回か「母」と言及があるだけです。ごく普通の家庭の中で育っていく筈の愛情が、私たちのこの時代に失われていると感じるのですが、それこそ、マリヤとイエスさまの間に育った第1の大きな愛であったろうと思われます。そんなイエスさまの愛を、私たちも同じ次元で、身近かに感じていきたいと思います。

 第2のことですが、マリヤの中に生まれたもうひとつのことを考えてみたいのです。それは、イエスさまの降誕告知からずっと、マリヤが注意して観察し、心にとめていたものの中で育ったのではということです。イエスさまの出来事には、たくさんの不思議がありました。天使の告知も、羊飼たちが証言した天使たちの賛美、東方の博士たちがイエスさまの前で宝の箱を開け、贈り物をしながらひれ伏し、礼拝したことも、エルサレムの神殿で、シメオンとアンナが幼子イエスさまに向かい、イスラエルの救いと呼び掛けたこともそうでした。彼女の中でまだっきりしていなかったかも知れませんが、少なくともマリヤにとって、イエスさまは単なる彼女の長男ではなく、まさに「神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)お方でした。彼女の中に生まれ、格別大きくふくらんでいったものは、そんな不思議なイエスさまへの信頼ではなかったかと思うのです。彼女の愛情はその主への信頼につながり、だから、決してゆらぐことがなかったと考えるのが自然ではないでしょうか。「あの方が言われることを何でもしてあげてください」と婚礼の裏方の手伝い人たちに言った言葉は、彼女のイエスさまに対する愛情と信頼に裏打ちされているようです。そして、イエスさまはその信頼に応えました。彼女のことばが2つだけだったということは、きっと、それ以上の会話がなかったからでしょう。でも、マリヤにとって、それで十分でした。愛情も信頼もきっと、余分なことばを必要としないのでしょう。主への愛と信頼は、格別大切な信仰の中身であろうと思います。マリヤはまず、その愛と信頼を育てることから始めました。愛と信頼を中身とする信仰を、私たちも育てていきたいですね。