11 エリサベツ

主の恵みの中で

                                 ルカ 1:39−45
                                 詩篇 13:1−63
T 悲しみの中で

 前回はイエスさまご降誕の最初の記事、祭司ザカリヤを取り上げました。彼は「神の前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落度なく踏み行なっていた」と、律法に生きる者でしたが、神さまの恵みに触れ、今、その恵みの中に生きようとしています。彼は、律法の時代から神さまの恩寵の時代へと変わっていくその時の、先駆者となったと言えるでしょう。

 今回はザカリヤの妻エリサベツを取り上げます。この記事はほとんどがザカリヤを中心に書かれており、エリザベツの名前は4回しかなく、ともすればザカリヤの陰に隠れてしまうのですが、そんな彼女もルカが注目した人物です。彼女の中心点に触れていきたいと思います。

 ザカリヤが「あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます」と聞いた天使のことば通りに、何か月かたって、エリサベツはみごもったことを知ります。「主は人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました」(25)と、彼女の溢れるばかりの喜びが聞こえてきます。「5か月の間引きこもっていた」(24)のは、恥ずかしさのためではなく、授かった子どもが無事に生まれてくるよう、大事を取ったということでしょう。ユダヤ人にとって、子どもは神さまからの祝福の賜物でした。神さまから頂いた土地や財産などは、親から子へと引き継がれ、大切に守られていくのですが、ですから、子どもが生まれることは大変な喜びでした。第1サムエル記に、イスラエル最後の士師と言われ、王が誕生するときの中心人物となった、祭司サムエルの母ハンナの祈りがありますが、彼女も長い間子どもが生まれない悲しみの中にいました。彼女は泣きながら神さまの前に出て願いました。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭にかみそりを当てません」(1:11) そして、その祈りが神さまに届き、サムエルが誕生します。きっと、エリサベツも同じ悲しみと祈りを重ねていたのでしょう。それがこの喜びではなかったかと思います。忍耐の中に祈りを重ね、その祈りが聞かれたという喜びを、私たちももっともっと味わっていきたいですね。


U 祈りの中から

 エリサベツの最初の記事、 1:5-7にこうあります。「彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった」 エリサベツという名前は「神さまは(私の)誓い」という意味の、多分、アラム語です。少々面倒なことを言うようで恐縮ですが、ここに2つの証言があります。その一つ目ですが、当時、祭司に嫁いで来る女性が、必ずしも祭司の家の出だったわけではありません。しかし、それだけに、祭司の家の娘を妻に迎えることは理想的であるとされていましたから、「彼の妻はアロンの子孫で」と特別に彼女の家柄が強調されて、イエスさまの先駆者ヨハネが祭司職を受け継ぐ者であったという、慎重な証言になっているのです。もう一つ、そのもともとの名前は、モ−セの兄・大祭司アロンの奥さんエリシェバ(同じ意味のヘブル語)から来たものと思われます。出エジプト記に「アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にめとり」(6:23)とあります。アミナダブとナフションはルツ記にあるダビデの家系に名前の上がっている人物で、その子孫であるエリサベツもダビデの家系ということになります。とすれば、エリザベツの親類(ルカ1:36)だったマリヤもダビデ王の家系に属し、イエスさまがダビデの子としてお生まれになるという証言が、その通りだったとお分かり頂けるでしょう。永遠の大祭司であり王であるイエスさまの道備えをするために、これはひとつの型にすぎませんが、大祭司であり王の家系であったヨハネが先触れとなったということなのです。それは、イエスさまが真のメシヤであったという証言に他なりません。この2つの証言は、メシヤが来ることを待ちこがれていた人たちに応えるために、非常に慎重な形で提供されているのです。

 少々むつかしいことを言ったでしょうか。しかし、これはイエスさまへの証言です。そしてその証言は、先に見たエリサベツの祈りの中から生まれてきたものであるとルカは言いたかったのでしょう。単なる資料調べではないということです。前回、「ふたりとも神の前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落度なく踏み行なっていた」(6)というところから、ザカリヤの正しさはユダヤ人としての一般的な真面目さであったと指摘しましたが、それにしても、彼らがユダヤ人として神さまに忠実な者であったということは間違いないところでしょう。ただ、神さまの恩寵というところから見るなら、彼らの正しさにはまだ問題があったということでしょうか。特に当時、わざわざ「正しい者」と言われるそれは、そうではない者が多いイスラエルの中で、敬虔な信仰の持ち主であったと賞賛されているのです。彼らの敬虔な祈りの中でこの証言が生まれてきたと受け止め、これを記したルカの信仰を共有していきたいのですね。


V 主の恵みの中で

 エリサベツの記事の最後は、ヨハネ誕生です。「さて八日目に、人々は幼子に割礼をするためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとした」(59) 人々というのは彼女の親戚とか近所の人たちのことでしょう。昔の日本でもそうでしたが、子どもが生まれると隣近所の人たちがみなやって来て、寄ってたかって子どもの名前まで心配してくれるのです。私の名前も、父の友人たちが、ああでもないこうでもないといろいろ考えてついたと聞きました。そんな時代が懐かしいですね。現代にもそんな暖かさが必要と思います。そんな善意に、しかし、彼女は断固ヨハネという名にしなければならないと主張します。結局ザカリヤが最終決定をしてヨハネになるのですが、このヨハネという名前は、神殿の中でザカリヤが天使から聞いたものでした。「その名をヨハネとつけなさい」 多分、ザカリヤとエリサベツは何度も何度もそのことについて話し合ったのでしょう。彼女の中にすでにヨハネという名前が定着していました。

 どうも、この記事の経過から見て、ザカリヤよりエリサベツのほうが単純に、これを神さまからの告知と受け留めていたようです。ザカリヤが再び声を取り戻したのは、その子の名前をヨハネと決定した時でした。しかし、その前にエリサベツは、ヨハネという名前にこだわっているのです。しかも、イエスさまご降誕の告知を受けたマリヤが訪れた時、エリサベツはこれは神さまがしてくださったことであると告白し、喜んでいます。「子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう』」(42−45) 聖霊に満たされとあるのは、彼女の信仰に対する神さまの応えであり、彼女の信仰を神さまが祝福してくださったと言っているのでしょう。まさに、彼女に子どもが生まれたのは、神さまの恵みによったのです。

 「私はあなたの恵みに依り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ」(詩篇13:5-6)とありますが、この詩篇のことばは、彼女の信仰をまことにうまく言い得ているではありませんか。「ヨハネ」は「主の恵み」という意味でした。エリサベツはその主の恵みの中を歩んでいたのです。信仰とは、私たちが、この主の恵みの中に1から10まで生かされていると納得していくことではないでしょうか。その恵みの中で歩み、祈り、感謝していくことを覚えたいですね。