10 ザカリヤ

主を迎えるために

                                 ルカ 1:67−79
                                 詩篇 18:2−3
T 平凡な祭司ザカリヤが

 聖書の人物、これからしばらく、イエスさまのご降誕をめぐる人たちを見ていきたいと思います。「ほめたたえよ。イスラルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角をわれらのためにしもべダビデの家に立てられた。……」(ルカ 1:67-79)と、ザカリヤ賛歌と呼ばれるところです。同じルカ 1:46-55にあるマリヤ賛歌と共に、イエスさまご降誕の金字塔のように輝いています。まるでトランペットを奏するかのように、高らかにこれを歌い上げたザカリヤから聞いていきましょう。

 「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった」(1:5) エリサベツの名が挙げられるのは、彼女の家系が祭司として上位だったからでしょう。祭司は神殿で神さまに仕えるレビ族の中の特別職で、当時1万人ほどいたそうですが、余りにも多かったので、祭司長と約 400人の祭司とからなる24組に分け、6か月交替で神殿での勤めをしていたようです (8)。「祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿にはいって香をたくことになった」(9) とあります。神殿の奥深いところにある至聖所の前で(至聖所には大祭司しか入ることができない)朝と夕方の2回、犠牲をささげるときに香を焚くのです。神殿での勤めは他にもありましたが、香を焚くのは犠牲を献げるという神殿本来の勤めで、祭司にとって非常に大切な仕事でした。1組の中からくじで選ばれた14人が1週間その勤めにつくのですが、ちょっと計算をしてみました。1万人が24組で6か月交替、14人が1週間とありますから、平凡なザカリヤが、生涯でこの勤めに着けるチャンスの可能性はほとんどなかったのです。そんな彼に、チャンスがめぐってきました。そして彼が神殿に入って主のご用をしている時に、天使が現われます。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」 イエスさまの前に道を整える者となった、バプテスマのヨハネ誕生の出来事が始まります。


U 信仰の問題点を抱えて

 1万人の中の一人、道端の石ころように平凡に生きていたザカリヤが、イエスさまご降誕の歴史に残るすばらしい賛歌を歌うという、重要な役割を担いました。何が彼をそのように変身させたのでしょうか。私たちもまた、彼以上に平凡な営みを続けている者ですが、そんな私たちにも、何か神さまのご計画に用いられることがあるかも知れないと、わくわくするではありませんか。期待を込めつつ、ザカリヤを見ていきましょう。

 主の使いがヨハネ誕生の告知をした時、ザカリヤは言いました。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっています」(18) この言葉から、もしかしたら彼は、その平凡な人生に、もう輝くことを諦めていたのではと想像してしまいました。彼が主の使いのことばをすぐに信じることが出来なかったそこに、そんな諦めが顔を覗かせていると感じるのです。彼が求めたものは〈しるし〉だったのでしょう。「悪い、姦淫の時代はしるしを求める」(マタイ12:38-)、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める」(Tコリント1:22)とイエスさまやパウロがユダヤ人の不信仰ぶりを指摘していますが、それは、自分が納得できる証拠を求めるということで、彼らの奧深くにひそむ神さまへの信仰欠如が浮き出ているようです。すると、「ふたりとも、神の前に正しく、主のすべての定めを落度なく踏み行なっていた」(6) というザカリヤの正しさは、ただ祭司として真面目に生きてきたということだけのように見えてきます。それは、当時のユダヤ人たちの様子であり、平凡な人生に何も期待しなかったというその問題点は、実は、神さまにも何の期待もしていないと言うことだったのでしょう。それは、不信仰の最も根本的なものと思われます。私たちの信仰はしばしば〈聖書信仰〉と表現されますが、神さまを信じますということは、神さまのことばを聞くことによるという告白ですね。そのような聖書信仰にしっかり立つなら、神秘的な〈しるし〉が入り込んでくる余地はないでしょう。しるしはあくまでも個人的宗教体験であり、ともすれば、聖書をないがしろにする神がかり状態を期待することになってしまうからです。神さまを信じるとは〈聖書を読み、それが自分に語り掛けられた神さまのことばである〉と聞いていくことでしょう。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによる」(ロマ10:17)とパウロが証言している通りです。そのところでザカリヤは、信じることができませんでした。天使が言います。「見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたはおしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです」 神殿から出てきたとき、彼は話すことができなくなっていました。


V 主を迎えるために

 声を失ったザカリヤは、そんな自分を恥じてか、しばらく家に引き籠もります。その間にマリヤへの天使の告知が挟まれ、そして、もう一度彼が登場して来るのは、ヨハネ誕生八日目になってからでした。59節に「さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、エリサベツが『いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません』と言った」とありますが、集まった親戚が不思議に思い「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と、ザカリヤに身振りで赤ちゃんに何という名をつけるつもりかと尋ねます。すると彼は書き板に「彼の名はヨハネ」と書くのです。「するとたちまち彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになった」(64) 彼の賛歌はここから生まれてきます。もう以前のザカリヤではない、神さまのことばを聞き、それをしっかりと受け留めたザカリヤでした。「私のことばを信じなかったからものが言えなくなる」と宣言した天使の言葉が、きっと彼の耳に残っていたのでしょう。そして、来訪したマリヤと一緒に過ごした3か月が、彼に大きな変化を与えたのではないかと思われます。マリヤは、彼女から救い主が生まれるというガブリエルの告知を、彼らに何回も話しました。その名をイエスとつけなさい。イエス、それは〈主は救う〉という意味でした。

 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角をわれらのために、しもべダビデの家に立てられた。……」と賛歌が始まります。これは救い主の部分と先駆けとなったヨハネの部分からなっていますが、それは、イエスさまの出来事が我が子ヨハネから始まったという、彼の深い感謝の現われと思われます。彼は、神さまが救いの神さまであることを、ものの見事に歌い上げています。67節に「聖霊に満たされて預言した」とありますが、罪の赦しも贖いも、また、神さまのあわれみのことも、ただ聖霊に示されたからというだけではない実感がこもっているのは、きっと、彼が神さまのことばを信じなかったその時の状態が、当時の全イスラエルと同じであったと感じたからではないでしょうか。そんなザカリヤが、このように神さまのあわれみを頂きました。その神さまのあわれみは全イスラエル、そして現代の私たちにまで及ぶのです。ザカリヤは失った声を取り戻していく過程の中で、神さまの希望を見い出しました。この賛歌は預言なのでしょう。しかしこれは、彼の希望である神さまの救いを待ち望む信仰の歌です。主を迎えるために、ザカリヤは神さまの恵みだけを見つめようとしています。ヨハネとは〈主の恵み〉という意味です。律法から恩寵の時代へ、先触れとなったザカリヤとともに、神さまの恵みを見つめていきたいと思います。