1 クレネ人シモン

十字架を背負って

                                マルコ 15:21
                                イザヤ 53:7−9
T 悲しみの道で


 聖書の中心は勿論神さまご自身ですが、聖書にはもうひとつの中心、人間が描かれています。しばらく、その「人間」を聖書の人物の中に見ていきたいと思います。いろいろな人たちが出て来ますが、そうした人たちの中に、もしかしたら、私たち自身を見つけることができるかも知れません。順不動ですが、できるだけたくさんの人たちを見ていきたいと思います。

 最初はクレネ人シモンです。エルサレムに、イエスさまが十字架を背負って歩かれた「悲しみの道」(ヴィアドロロ−サ)と呼ばれるところがあります。ロ−マ総督の官邸からイエスさまが十字架につけられたとするカルバリの丘(今、そこに聖墳墓教会という1099年建設の古い教会が建っています)まで500mくらいのゆるい坂道を上っていくのですが、その道を辿ってみたいと、それが目的でエルサレムに行ったことがあります。何回その道を歩いたでしょうか。毎週金曜日になると、フランシスコ会の人たちを中心に、イエスさまの十字架のお苦しみを偲ぼうと行列が出来るのだそうですが、その苦しみを担おうと、彼らは膝で歩いていくと聞きました。その道筋に15箇所の祈祷所があり、その一つ一つで立ち止まって祈るのですが、その5番目に、「クレネ人シモンが十字架を強いて負わされた」という場所がありました。城壁で囲まれたエルサレム旧市内の道巾はよそ3m、狭い石畳の坂道にたくさんの店がひしめき、あらゆる商品が道にまで張り出し、吊し、並べられています。その一角、曲がり角の少しだけ広くなっているところに小さな聖堂があり、扉に「クレネ人……」とラテン語で記されていました。以前からこの人物に惹かれるところがあり、その文字に釘付けされ、動けなくなったことを思い出します。シモンがここで強引に十字架を負わされたのは、どんな状況から? 十字架をかつぎながら、彼は何を考えていたのだろう? シモンのその後は?……と、いろいろなことを考えました。その時のことを思い出しながら、クレネ人シモンの紹介です。


U シモンの目の前を

 彼の記事はマタイ、マルコ、ルカと3つの福音書にありますが、どれも数行の短い記事で、やはり短いのですが、マルコが一番詳しいようですね。短い記事ですからだいぶ想像も混じりますが、それでもこれは聖書の記事ですから、ここからあなたに語り掛けてくるものがあると思います。ここに語られる神さまの声は、この記事のように小さいかもしれませんが、聞いて頂きたいと願います。

 クレネはアフリカの北端、エジプトのずっと西方にあるクレナイカ地方の首都として栄えた町です。今は廃墟になっていますが、当時はギリシャ植民地として栄えた町らしく、ユダヤ人がたくさん住んでいて、彼らの会堂もあり、改宗者も多かったようです。シモンもそんなひとりでした。シモンとはユダヤ人のごく平凡な名前で、おそらく、ユダヤ教に改宗してその名を名乗ったものと思われます。彼らは巡礼者として、年一度の大祭、過越の祭りのために、何週間もかけてエルサレムに詣でていました。シモンもその一人だったのでしょう。その日は祭りのクライマックスでしたから、賑やかな商店街をキョロキョロと歩きまわっていたのでしょうか。ところがそこに、武装したロ−マ兵たちが隊列を組んで、十字架をかついだ囚人を引き回して来ます。たちまち道の両側に人だかりができました。もちろん彼もその中で、好奇の目を光らせて、もしかしたら、人垣の一番前にいたのかもしれません。目の前を十字架を背負ったイエスさまが歩かれ、もうそれを背負って歩く力もありません。シモンの目の前で「倒れた」と伝説は伝えています。むちで叩いてもけとばしても、十字架を持ち上げる力がないのです。そこで兵隊たちは、イエスさまの十字架を「むりやりに彼に背負わせた」とあります。ベンハ−の映画では、太く大きな柱をイエスさまがかついで、一歩一歩踏みしめるように歩いていかれる場面がありますが、きっとそんなふうだったのでしょう。何日も眠らず、むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、血を流しての強行でした。そして、何よりもイエスさまには、私たちの罪の贖いとして死んでいかなければならないという、ずっしりと重い苦悩がありました。ほんの少しの重荷を抱えても、心傷んで病気になってしまう私たちですが、イエスさまが十字架を落とし、倒れたとしても不思議ありません。シモンはその一部始終を眺めていました。そして引き出されます。「むりやりに」。彼はイエスさまを、十字架につけられるほどのとんでもない悪人と見ていたのでしょう。ローマの十字架刑は、重大犯や政治犯などに適用された見せしめの刑罰で、ロ−マ市民権を持っている者にはローマ法で禁止していました。そんな十字架を彼は、こともあろうに神聖な祭りの最中に、かつがなければならなかったのです。


V 十字架を背負って

 そして刑場に着き、多分、一言の礼もなく追い出されたのでしょう。しかしそれは、彼にとって、忘れることのできない情景になったのではないでしょうか。大急ぎで逃げ出したかったその忌まわしい場所を、彼は離れることができなかったと想像するのです。

 シモンは、十字架をかつがされるという異常な体験を通して、道端で見ていた時よりずっと真剣にイエスさまを見つめたに違いありません。罵り騒ぐ人たちが取り巻く中で、「父よ。彼らをお赦しください」と十字架上で祈られたイエスさまを……。「なぜこの方が十字架につけられなければならないのだろう」、そんな疑問が沸き上がったとしても不思議ありません。残念ながら、このあとシモンの記事はないのですが、ここにマルコは「アレキサンデルとルポスの父」という記事を挿入しています。それはいかにも唐突に感じられますが、多分、二人の名前が当時のクリスチャンたちに良く知られていたからでしょう。「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私の母によろしく」(ロマ16:13)とある人物と同一ではないかと、多くの聖書学者たちは考えています。そしてもう一人、アンテオケ教会の指導者と思われる「ニゲルと呼ばれるシメオン」(使徒13:1)が、このシモンと推測されています。とすれば、シモンの一家全員がクリスチャンになっていたと考えていいでしょう。そしてそれは、シモンがイエスさまの十字架を背負わされたことと決して無関係ではないようです。彼はあの時、イエスさまの十字架を背負うことで、救い主イエスさまに出会ったのではないでしょうか。そしてイエスさまを信じたと想像するのです。

 もうひとつのことがあります。多分、マルコ自身がアンテオケやロ−マで、シモンにもアレキサンデルにもルポスにも出会っていただろうということです。マルコはイエスさまが逮捕された時、裸で逃げ出した若者でした。また、パウロの伝道旅行で、その困難に音を上げて逃げ出した経験を持っています。彼はその痛みを、シモンのこの痛みに重ね合わせたのでしょう。その彼の痛みが、私の心にも響きました。この記事は、マルコ自身の信仰の証言でもあると聞こえてきます。イザヤ書53章に、「ほふり場に光れて行く小羊のように……。彼がわたしの民の背きの罪のために打たれ……」とありますが、十字架をかついだ時のなんとも言えない悲しみを、シモンは生涯忘れることができなかったでしょう。十字架を背負いはしたけれど、しかし、彼がそこで死んだわけではありません。その十字架上で死んでくださったのは、イエスさまだったのです。その主への思いを、シモン、マルコとともに、痛みとして、感謝として、覚え続けていきたいと願います。