聖書に聞く


事例9 マタイ福音書12:1
「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた」


 ガリラヤでのお働きの、中期のころでしょうか。民衆のイエスさまを求める声が大きくなり、イエスさまは北に南に……と、席の暖まる暇もないほど忙しく働いておられました。ピークに達していたころと思われますが、「弟子たちはひもじくなった」というフレーズに、当時の働きぶりが現れているようです。しかし、宣教の働きに忙しかっただけではありません。相変わらず貧しいイエスさまと弟子たちの一行です。マタイはすでに弟子団の一員になっていましたが、彼が持ち込んだ相当のお金も底をついてきたのでしょう。しかし、彼らが収入につながる仕事(船を出して漁をするなど)をしていた痕跡はありません。ひもじさの第一原因は、彼らの貧しさから来ていたと思われます。

 「安息日に麦畑を通った」とあるのは、いかにもガリラヤの風景ですが、ガリラヤ湖と台地に挟まれたガリラヤ地方の町の、どの辺りだったのでしょうか。安息日には会堂で礼拝があります。その会堂はカペナウムで、今、そこへ行く途中だったようですから(12:9)、その近くの畑だったのでしょう。カペナウムはガリラヤ地方第二の都市です。畑は町の郊外に広がり、おもに山の麓から山上に続いています。山上は名だたる穀倉地帯でしたが、安息日に歩いていい距離としては遠すぎます。拠点にしていたペテロのしゅうとめの家から、会堂に来る途中の畑と考えるのが妥当です。さほど広い畑ではありませんが、会堂への近道に、畑のあぜ道を通っていたのでしょう。

 弟子たちは「穂を摘んで食べ始め」ました。当時の風習として、それは許されていることでした。律法には、摘んでかごに入れるのはだめ、鎌で刈り取ることもだめでしたが、手で摘んで食べるのは許されていました。この辺りの麦はほとんどが大麦で、それを生でもみほぐしてというと、決しておいしいものではありません。それほどおなかが空いていたのでしょう。

 その様子をパリサイ人(複数)が見ていました。「見つけて」とありますから(2)、偶然なのでしょうか。彼らも会堂へ行く途中だったと思われます。「見つけて」と訳しているのは新改訳聖書だけで、他の日本語訳は「見て」となっています。もともと、「しっかりと目を見開いて見る」というニュアンスのことばが用いられていますから、偶然というよりも、彼らパリサイ人たちは、イエスさまたちの落ち度を見つけようとあとをつけて来て、安息日にしてはならない行為を見届けた、とするのがいいようです。このころ、パリサイ人との確執は、抜き差しならないところまで悪化していました。これは彼らの悪意が伝わる記事になっている、と考えるのは行き過ぎでしょうか。


事例10 マタイ12:11
   「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、
   それを引き上げてやらないでしょうか。」


 事例9と同じ安息日に、今度は会堂での出来事です。片手のなえた人をイエスさまが癒やされるかどうか、彼らパリサイ人が監視しています。イエスさまは彼らに言われました。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を……」 彼らはパリサイ人ということを、職業とはしていません。教師は別に職業を持たなければならないと、それがユダヤの慣例です。土に関わる仕事が尊いとされていましたから、彼らのうちでは羊飼いに人気があり、多くがそれを職業とし、何頭もの羊を飼っていました。一切の世話は他人任せでしたが、羊が安息日に穴に落ちると、彼らはそれを引き上げてやります。穴とは自宅に引いている水道ですが、自分たちがそれをしますから、それについては他の人たちにも寛容だったようです。しかし、落ちたのが人の場合には、何かと難癖をつけました。しかし、おおむね黙認していたようです。これがイエスさまだったから、目くじらを立てたのです。安息日には、何の労働もしてはならないのだと!