聖書に聞く



事例7 使徒行伝2:1−4
 「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」


 これは聖霊降臨と言われ、ここから最初のキリスト教会(エルサレム教会)が誕生した、とされる出来事です。ここから考えてみたいことがあります。まず、聖霊降臨の様子ですが、二つのことが上げられています。一つは「天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こった」こと、もう一つは「炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった」ことです。

 このテキストには重要な写本による読み替えも少なく、新改訳聖書のように訳されたことについても、異論はありません。ですから、実際に激しい風が吹いて来たわけではありませんが、家全体に響き渡った「音」が風の音を指していると、そこにいた人たちが聞いたことは確かでしょう。もっとも、その音は、彼らだけが聞いたのか、それとも外にいた他の人たちも聞いたのかは分かりません。もう一つの炎も、何かが燃えている状況があったわけではなく、彼らが見たのは「舌(のようなもの)」(複数)であって、それが彼らにはあかあかと燃える炎のように見えたということなのです。しかし、はっきり「舌」と認識しているのですから、そこに現われたものが「舌」だったことに間違いありません。つまり、彼らは「音」を聞き、「舌」を見ました。しかし彼らは、聴覚や視覚の認識とは別に、ある種の表象としての風や炎を感じたのです。恐らく、感じたとしか言いようがないのでしょう。つまり、この表象認識は、彼らだけのものでした。それが聖霊降臨の体験なのです。

 この体験は、風にしても炎にしても、神さまがご臨在した時のしるしであると、彼らは旧約聖書を通して知っていました(Uサムエル5:24、詩篇104:4、出エジプト3:2など参照)。しかし、そのご臨在は、神さまが何らかの状況を伴って彼らに現われただけというのではなく、そんな外的事象を伴いながら、彼らの内的出来事として降臨したのです。つまり、聖霊降臨でした。これが客観的外的事象と主観的内的事象の二つから為っているのは、恐らく、個々人への降臨であると同時に、弟子団という交わりへの降臨だったからなのでしょう。それは、教会の誕生につながるものでした。

 もうひとつ考えてみたいのですが、個々人にであれ、交わりにであれ、彼らが風の音を聖霊降臨の表象と聞いたということです。ギリシャ語で風は息と同じことばであり、ヘブル語でもおおむね同じと考えていいでしょう。神さまが息を吹き込まれた代表例を二つ上げましょう。「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの《息》を吹き込まれた。そこで、人は生きる者となった」(創世記2:7・ヘブル語ネシャーマー)、「わたしがおまえたちの中に《息》を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」(エゼキエル37:5・ヘブル語ルーハー)ここに用いられた二つのヘブル語は違うことばですが、ルーハーのほうが少々霊的意味を強調しているだけで、さほど変わりありません。いづれも人のいのちにつながっていて、神さまの風・息とは、人のいのちなのです。その意味を込めて、「風の音」という表象を聞いたと証言し、ルカはそのように記録しました。教会は、聖霊降臨によって、いのちを与えられたと聞かなければなりません。なぜでしょうか。人が集まるだけでは、教会とはなり得ないからです。たとえ教会らしい集会であっても、教会としてのいのちを持っていなければ主の教会ではないと、ルカはそこに焦点を合わせているようです。その意味で、「彼(ペテロ)のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。そして使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(2:41-42)とある、教会誕生の記録を覚えなければなりません。そこにはみことばに基づく教会、祈り、交わり、聖礼典を行なう教会の姿が描き出されています。みことばも、祈りも、交わりも、聖礼典も、一切が主イエス・キリストを中心に行われなければならないのです。教会にいのちを吹き込まれた聖霊なるお方は、イエスさまご自身ですから。その主を告白する教会であり続けたいと願います。