聖書に聞く



事例6 マタイ28:1−20
「イエスが彼女たちに出会って、おはようと言われた。彼女たちは近寄って、御足を抱いてイエスを拝んだ。」(9)


 ここを読むたび、いつも奇妙に思うのですが、よみがえりのイエスさまにお会いしたのは間違いないと思われるのに、ここにマタイ自身の証言がありません。「私もお会いした」と、なぜマタイは記録しなかったのでしょう。ガリラヤの山上で主にお会いした11人の弟子たち(17)の中に、間違いなく彼もいた。だから、特に名前を出す必要はなかった。それもひとつの理由でしょう。しかし、この28章を何度も読んでいるうちに、彼自身の、これがその証言ではないかと思われるものが浮かび上がって来ましたので、紹介しましょう。

 28章には、イエスさまよみがえりの証言がいくつもあります。第一は、イエスさまが葬られた墓の入り口に転がしかけてあった大きな石の扉が、地震が起こって取り除かれたことです(2)。これは間接の証言ですが、6節に、その上に座っていた主の使いが「来て、(イエスさまの遺体が)納めてあった場所を見てごらんなさい」と言っています。女性たちがそこを見るという前提のもとで、そこには遺体がないという証言です。第二に、主の使いの証言です。「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」(6)第三に、この日の早朝、墓を見に来た女性たち、マグダラのマリヤと他のマリヤの証言です。「すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう』と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。するとイエスは言われた。『恐れてはいけません。行ってわたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです』」(9-10)彼女たちはイエスさまの声を聞き、その「足を抱き」ました。視覚ばかりでなく、聴覚と触覚という感覚を通して、イエスさまを認めたのです。ヨハネの福音書では、マグダラのマリヤ一人だけがイエスさまにお会いしたという記事になっているのですが、簡略ながらマタイの記事は、「他のマリヤ」もそこに加えています。彼は、ヨハネのように詳細に述べることを目的としていません。ヨハネで、イエスさまはマリヤに「すがりついてはいけない。わたしはまだ父のもとに上っていないから」と言われていますが、マタイはそうしたことには触れず、「彼女たちは御足を抱いた」とだけ記します。それは、彼女たちの証言を、イエスさまよみがえりの証言として重んじたからです。第四に、「女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した」(11)とあるように、番兵たちの証言です。これは、27:62-66にある祭司長、パリサイ人たちの要請により、総督ピラトが出したローマ兵士です。祭司長たちはイエスさまのよみがえりを心配していましたから、ここで番兵たちはまさに、イエスさまよみがえりの証人となったわけです。彼らはイエスさまの敵側の人間ですから、その証言には一層の信憑性があると聞かなければなりません。第五に、マタイは、広く一般民衆の証言を上げます。「それで、この話は広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる」(15)この話とは、番兵たちが多額のお金をもらって「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来てイエスを盗んで行った」と言え(12-13)というものです。祭司長たちもその証人にされています。

 そして第六に、マタイは、彼自身を含め、11人の弟子たちに現れたイエスさまとのことを記します。「そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかしある者は疑った」(17)これは弟子たちの証言です。ここに「ある者は疑った」とあり、マタイはその事実を正直に記しました。まるで、彼自身が疑ったかのように……。身内のことですから証言としては一番軽いのですが、彼はそれを彼自身の証言としたのかも知れません。少なくともマタイは、イエスさまよみがえりの証言として、彼個人の証言を重視しませんでした。それより、先の五つの証言を並べることで、それをイエスさまよみがえりの証言集にしているのです。大きな石と主の使い、主の使いと女たち、女たちと番兵たち……。マタイは、これらの証言を組み合わせることで、互いを補完させています。慎重に、全知力を注いで、マタイはそのように記しました。これが彼の証言です。イエスさまよみがえりは事実であると。