聖書に聞く

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事例4 箴言23:17−18
「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。」


 浅野順一がご自分の著書「詩篇」(岩波新書)で、詩篇の記者をバビロン捕囚時の預言者であろうとしているところがありますが、私はそれをもっと広げて、詩篇全体と箴言までその時期の預言者のものではないかと想像しているのです……。ほとんどの人たちがソロモンによるものとしている中で、無謀とも言える想像ですが、あながち見当間違いではないようです。

 例えば、岩波訳旧約聖書の解説書「聖書を読む」には、知恵文学をバビロン捕囚時の教師によって書かれたものとしています。雅歌をそのように読みますと、全体が良く理解できるのです。箴言もそうです。今回の事例は、そんな想像の中で書いていますが、ご容赦ください。

 イスラエルの人たちがバビロンに連れて行かれた時、バビロンはアッシリヤ帝国を押しのけ帝国を確立したばかりで、力と勢いがありました。都市国家バビロンのユーフラテス川沿いには、まだまだ手つかずの広大な土地がありましたから、連れて来たユダヤ人捕囚の民を、何カ所ものコロニーに分け、土地開拓に従事させたのではと思われます。そのコロニーで、シナゴグと呼ばれるユダヤ人会堂が誕生しました。一つ一つのコロニーは、シナゴグ中心にまとまり、ユダヤ人の誇りを持ち続けていたと言えるでしょう。そのシナゴグの指導者が、預言者ではなかったかと思うのです。彼(彼ら)は教師であり、牧師であり、そこで持たれる礼拝の説教者でもありました。詩篇はその礼拝で歌われる賛美集であり、箴言は説教の要約と考えられます。今までエルサレムの神殿で、祭司を介して供物を献げる礼拝を行なっていましたが、ここに彼らの慕う神殿はありません。シナゴグで行われる礼拝が、彼らの信仰生活の中心になっているのです。ちなみに、キリスト教会の礼拝は、このシナゴグの礼拝をひな形にしていると言われ、賛美と祈りと説教が中心になっています。

 さて、箴言を見ますと、彼らが入植して間もない、初期時代の説教と思われるものも多く見られますが、今回の事例は、かなり時間が経ってからのもののようです。捕囚の期間は70年ですが、その時が満ちても、帰還した人たちは多くはなく、残る人たちでコロニーがそのまま続いていたと思われます。そんな帰還が近づいて来たころ、人々の暮らしには大きな変化が生まれていました。一方には昔ながらの農業に従事する者がいます。彼らは貧しいながら、変わらず神さまを信じる信仰を守っています。しかし一方に、バビロンの都に出て行って商売をし、儲ける者も出て来ます。富を手に入れ、都の華やかさにあこがれる人たちが、バビロンの神々に誘惑されたのは言うまでもありません。なにしろイスラエルは、カナンに定住した当初から、カナンの神々と仲良くした歴史を持っているのです。預言者のメッセージは、ほとんどがそのような人たちに向けた、信仰の勧めなのです。事例の箇所に「罪人をねたんではならない」と言われるのは、そんな背景を聞くとお分かりでしょう。罪人は犯罪者ではなく、バビロンの神々に囚われて、唯一の神さま・主への信仰の危機に陥った人たちなのです。他に悪者とか愚か者と言われる人たちも同じです。遠く離れた異境の地で、預言者は、神々との戦いを強いられていたと言えるでしょう。貧しいけれど、ぎりぎり主への信仰に留まっていた人たちに、「あなたの望みは断ち切られることはない」と励ましたのも、彼の切なる願いからではなかったでしょうか。彼はその望み・主を見つめ続けていました。メシア信仰が生まれたのも、この時期であろうと言われています。この預言者の信仰が、捕囚の中でイスラエル消滅の危機を救いました。その意味で箴言は、イエスさまの福音につながる、「希望の信仰」のルーツにも思えます。預言者とは、神さまのみことばを取り次ぐ者という意味ですが、その系譜が旧約聖書に記されるイザヤ、エレミヤ……から彼らに引き継がれ、さらにイエスさまと弟子たちに続いて行くのです。私たちもその系譜にと願わされます。みことばに生かされる者とされたのですから。