聖書に聞く

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 今回は、ある方から質問のあった、「説教」ということについてです。
 「説教」ということばですが、この言い方は、英語のサーモンsermonを訳したもので、日米修好条約調印後の安政5年(1858年)6月19日の日曜日、総領事ハリスが下田の総領事館(お寺を提供)に全将士を集めて行なわれた日本国土最初の礼拝で、米国海軍将官が記した一文に「聖書は朗読され、祈祷は捧げられ、説教は宣べ伝えられ……」(佐波亘「植村正久とその時代」)とありますから、プロテスタント教会が入って来た初期にすでに用いられていた、恐らく、日本独自の伝統あるものです。私は、聖書と聖餐台を囲んで行われる教会の礼拝で、プルピット(pulpit教会の説教壇)から語られる神さまのことばの取り次ぎには、それがふさわしいと考えた先輩たちが選び、守って来た伝統を大切にしたいと思っています。中には「説教」ということばのニュアンスを嫌って、「メッセージ」とか「宣教」という言い方を用いる人たちもいます。聖書のギリシャ語には、ディダケー(教え)とケリュグマ(告知)がありますが、説教はディダケー、宣教はケリュグマの訳と考えていいでしょう。天使も使徒も預言者もメッセージを伝える者という意味から来ていますので、「メッセージ」ということばを用いる人たちも多いのですが、日本の教会では「説教派」が大多数のようです。

 説教を内容別に見ますと、一般的に、講解説教と主題説教があります。その他、ジャンル別あるいは形態的に、「礼拝説教」「伝道説教」「奨励」「宣教」などと区分けされています。「奨励」は「説教」と何ら違いはありりませんが、この言い方が用いられるのは、教師としての按手礼を受けていない信徒が話す場合にと、区別(差別?)する教団が多いようです。意外と教会には教派、教団意識が強く、各個教会よりも、教派教団という組織が上位にあると意識されているようです。私としては、イエスさまが大切にされたのは「教会」であって、教派とか教団ではなかったと思うのですが……。

 質問された方は、説教を「礼拝説教」と「講解説教」とに並べて区別していますが、形態別と内容別とに区分けされるものですから、同列に扱うことには無理があるでしょう。「礼拝説教」とは、恐らく、主題説教を指していると思われますが、実は、これも「講解説教」と相反する説教ではありません。「説教」を、「分かりやすい」とか「霊的な」ということを前面に出して、ふんだんに例話を用い、テキストとした聖書の説明などを避ける傾向がありますが、これがいきすぎますと、自分の話したいことが中心になってしまい、中には、選んだ聖書の箇所は初めに読まれただけで、説教の中では一度も触れられないというケースさえあるのです。それに対して「講解説教」は、註解書や神学書などを並べたてながら、そのところの説明に終始するものという誤解もあるようです。私は、どちらもプルピットから神さまのことばとして取り次がれるべき「説教」ではないと思っています。

 さて、「講解説教」のことですが、これは、言語、文脈、背景、歴史、旧新約聖書全体との関連、調和等々、様々な文献を丹念に調べ、その聖書の箇所が語るメッセージを聞き取ることから始めなくてはなりません。その下調べは「聖書釈義」と呼ばれますが、そのためのツールには辞書や註解書ばかりでなく、ときには、全く関係ないと思われる分野の知識も必要でしょう。聖書はそのような巾広い分野を内包しているのです。しかし、そういったものが絶対に必要なものかと言いますと、違うような気がします。もちろん聖書とは全力で向き合わなければなりません。が、個々人の向き合い方があって当然ですし、誰もがギリシャ語やヘブル語に精通できるわけでもありません。ギリシャ語が読めなければ聖書のメッセージが聞こえて来ないのか? 断じてそうではありません。聖書はだれにでも語りかけて来るのです。ただ、聖書釈義の中心は文脈にあると思われますので、その文脈に沿って理解することは極めて大切なことでしょう。肝心なことは、聖書が語っているメッセージを取り次ぐことなのですから。一箇所だけの講解説教でもいいのですが、わざわざ「講解説教」と言われるのは、一書を初めから終わりまで連続していくことで、その書全体が語っているメッセージを聞いていこうとするからなのです。以上のことを理解しますと、「主題説教」も講解説教の延長上にあるとお分かり頂けるのではないでしょうか。もともと、新約聖書の各文書は、礼拝や他の機会に説教として話されたことが土台になっていることが多いと聞いていいでしょう。パウロの書簡にはそんな要素が大きいようです。