聖書に聞く

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事例34 使徒行伝28:16
   「私たちがローマにはいると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された」


 パウロがローマにやって来たのは、カイザリヤの法廷で皇帝に上訴したためでした。つまり、彼は、未決囚としてローマにやって来たのです。それなのに、番兵付きとは言え、「自分だけの家」に住むことが許可されました。なぜ、そんなことが? その辺りのことを考えてみたいと思います。

 ネロ帝の治世(紀元54-68年の14年間)、紀元59年か60年のことです。帝位就任からしばらくの間、若いネロ帝は、誰もが驚くほどの善政を熱心に行なっていましたから、ローマ市民権を有する未決囚に相当の自由を認めていたとしても、おかしくはありません。しかし、この頃のネロは、政治に興味を失って、もっぱら自作の詩を朗読してまわるなど、いっぱしの芸術家を気取っていましたから、未決囚のユダヤ人などには興味がなかったでしょう。拘束されていた満二年の間、パウロの罪状を審議する皇帝の法廷は、一度も開かれていないのです。ですから、パウロのこの自由には、ネロ帝にではない、別の要因を探らなければなりません。

 本来、帝国の囚人を収監するローマ官憲は、ローマ市の治安を統括する警察としての近衛軍団でした。それは皇帝直轄の部隊で、宮廷守備も担当していましたから、ローマ最強の軍団から選抜されたその多くは、ライン川防衛の任に当たっていた、ゲルマニクス軍団からだったようです。そんなことを考慮しますと、パウロの身近に、ある人物が浮かび上がって来ます。カイザリヤからパウロを護送し来た、百人隊長ユリアスです。

 ユリアスはもともと、ユダヤ総督に任命されたフェストについてカイザリヤに行った、近衛部隊所属の軍人だったようですから、今、派遣されていた部下の近衛兵たちと共に、パウロたち囚人を護送して、古巣に戻って来たところです。パウロが兵営外に家を構えた、その辺りの事情を説明していると思われる16節には、異読の写本がありますから、紹介してみましょう。「百人隊長は囚人たちを守備隊長に引き渡したが、パウロは、ひとりの番兵をつけられ、兵営の外にひとりで住むことを許された。」(前半は、新改訳の下欄に注として付記されている) これは加筆が多いとされる西方写本で、原典にはない後世の加筆と思われますが、ローマの諸事情を勘案しますと、妥当な加筆と考えられます。この守備隊長の名は記されていませんが、恐らく、ユリウスだったのでしょう。百人隊長ユリアスの上司です。ユリアスとかユリウスとか、同じような名を持つ人が沢山いたようですが、これは、共和制が帝政に移行する時の将軍ユリウス・カイザルが、ライン川防衛を視野に、ゲルマニアの族長たちに自分の名を与えるという、大判振る舞いした結果なのです。そのユリアスが上司ユリウスに、暴風に巻き込まれた航海で一兵も損なわずに帰還したのはパウロの功績であったと、そんなことを上申した結果、パウロの兵営外居住が認められたのではないかと想像します。ローマに来る直前、入港したポテリオでは、パウロが教会に七日間も滞在していますが、ユリアスの許可なくしては出来なかった、破格の待遇です。

 そんなことを考えますと、百人隊長ユリアスが、難破船の中でパウロが語った福音、イエスさまを信じ、受け入れてクリスチャンになったのではと想像してしまいました。ある意味で、パウロのいくつもの提案がなければ、恐らく一行は、激しい暴風の中で、ひとりも助からなかったでしょう。沈着冷静なルカでさえ一度は死を覚悟した(使徒 27:20)ようですので、そんな中を生き延びてローマに辿り着いたのは、パウロの信じる主・イエスさまの守りと啓示があったからです。パウロの証言を聞いてクリスチャンとなったユリアスは、ローマにおけるパウロの後ろ盾になったのでしょう。ですからパウロは、囚人でありながら家を構え、イエスさまの福音を語り続けることが出来たのではないでしょうか。ルカが早い段階でユリアスという名を明らかにしている(27:1)のは、その辺りの事情、特に主のお働きを暗示してのことではなかったかと思われます。