聖書に聞く

30

事例32 ヨハネ1:45-46
「彼はナタナエルを見つけて言った。『私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ヨセフの子、ナザレのイエスです。』ナタナエルは彼に言った。『ナザレから何の良いものがでるだろう。』ピリポは言った。『来て、そして、見なさい。』」



 ナタナエルについては、この箇所と21:2に「ガリラヤのカナのナタナエル」と出て来るだけで、何も分かっていませんが、12使徒にバルトロマイという人がいて、その名簿に(マタイ10:3)「ピリポとバルトロマイ」と二人一組で出て来ますので、彼がバルトロマイではないかと想像されています。ナタナエルとピリポは親しい友人でした。ピリポはガリラヤ湖北端の町ベッサイダの人で、ナタナエルはガリラヤ湖西部山中の寒村カナの出身ですから、二人がどこで出会ったのか分かりませんが、あり得ないことではないでしょう。

 その二人がイエスさまと出会い、弟子に招かれます。初めはピリポでした。イエスさまがピリポを見つけて言われます。「わたしについて来なさい」(43岩波訳)そして、ピリポがナタナエルを見かけて声をかけるのです。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ヨセフの子、ナザレのイエスです」(45)と。この記事を執筆したヨハネは、その辺りのことを、当事者ピリポとナタナエルから、そして、それを見ていた最初の弟子、アンデレやペテロからも聞いて、この記事を、詳しく、正確に書きました。もっとも、アンデレと一緒にいた名前不詳の弟子がヨハネという説もあるのですが……(37-40)。しかし、「目撃した」、「目撃した人から聞いた」は、果たして「正確な記事」の決定的条件なのでしょうか。恐らくそうではありません。こと聖書に関する限り、それは限定的条件と言うべきでしょう。

 これが「正確な記事」とされる中心点は二つあるのですが、今回は、それを聞いていきたいと思います。
 一つは、ピリポが「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会った」(45)と言っている証言からです。ユダヤ人が「モーセの律法と預言者たち」と言うとき、それは旧約聖書を指しますが、全部で39巻もあるぶ厚い旧約聖書が指し示しているたった一人のお方に「会った」と、ピリポは言っているのです。アンデレはその方をメシア(キリストはその訳語、救い主)であると証言し、ペテロやピリポ、「ナザレから何の良いものがでるだろうか」と懐疑的だったナタナエルもイエスさまにお会いして、その証人に加わりました。これは、イエスさまを「信じ、受け入れる」という、信仰の告白なのです。その告白をヨハネも受け入れ、それが「正確な記事」になりました。「正確な記事」とは、イエスさまにお会いすることで「メシア」に「会った」とする、聖書全体がイエスさまを証言しているという、告白に基づく理解のことなのです。その告白には、旧新約聖書全体を「神さまのことば」であるとする、原則が確立していなければならないでしょう。聖書が「正確な記事」である決定的条件は、聖書がいのちの息を吹き込まれた「神さまのことば」だからに他なりません。ピリポが「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている」と言ったのは、その意味においてなのです。パウロはこう証言しています。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ロマ10:17) ヨハネも、同じ思いではなかったでしょうか。

 もう一つ、ピリポのことばからです。彼はナタナエルに言いました。「来なさい。そして、見なさい」 メシアであり救い主であるイエスさまを、私のメシア、救い主であると悟り、信じるには、イエスさまのところに「来て」「見る」以外に方法はありません。ナタナエルはイエスさまにお会いし、「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白しました。クリスチャンの友人から話を聞くことも、教会に来ることも、牧師に会うことも勿論大切なことですし、また、教会がイエスさまを宿す場所になっていなければならないことも当然です。初めて来た人は、そこでイエスさまにお会いするのですから……。しかし、一番大切なのは、直接イエスさまのところに来て、イエスさまを見ることです。どうぞ、イエスさまにお会いしてください。そして、ナタナエルのように、お会いしたイエスさまを、「私の救い主」と告白して頂きたいのです。