聖書に聞く

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事例27  イスカリオテ・ユダ(3)
「それで、彼はすぐにイエスに近づき、『先生。お元気で』と言って、口づけした。イエスは彼に、『友よ。何のために来たのですか』と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。」(マタイ26::47-50


 イスカリオテのユダがイエスさまを裏切ったのはなぜなのか。そのことを手探りしながら、今流行の「ユダの福音書」を見たり(事例25)、いろいろな見解を紹介したり(同26)して来ました。今回は、ユダに関する記事を最も多く取り扱っている、マタイ福音書を取り上げてみましょう。それでも、「ユダの福音書」に比べるとその記事は非常に少なく、聖書記者たちの口は、なぜか重いようです。

、「イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダ」(10:4)

、「そのとき、12弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行ってこう言った。『彼をあなたがたに売るとしたら、いくらくれますか』すると、彼らは銀貨30枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた」(26:14-116)

、「すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか私のことではないでしょう』イエスは彼に、『いや、そうだ』と言われた」(26:25)

、「イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、12弟子のひとりであるユダがやって来た。……イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、『私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ』と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、『先生。お元気で』と言って口づけした。イエスは彼に、『友よ。何のために来たのですか』と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた」(26:47-50)

、「それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長、長老たちに返して、『私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして』と言った。しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ』と言った。それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。祭司長たちは、銀貨を取って、『これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから』と言った。彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『彼らは銀貨30枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った』」(27:2-10)

 最後に拙著「マタイの風景」(下)から引用しましょう。
「不思議なことである。ユダが死んで、やむなく買ったその場所が陶器師の畑であったとは。もし意識していたなら、彼らは決してそれを買おうとはしなかったに違いあるまい。もともと神殿の金庫から出たものである。本来神さまのご用に用いる筈のものを、イエスさまの血を流すために拠出した。それなのに、ユダが戻してくるとそれを神殿の金庫に入れるのは良くないと言う。いくら厚顔であっても、さすがに自分たちの不条理なことに気がとがめたということなのか。マタイは、だから、預言者のことばを掲げた。イエスさまの血が流されたのは、神さまのご計画だったのであろう。

 マタイがこの記事を、カヤパとピラトの裁判の間に差し挟んだのは、「私は罪を犯した。罪のないお方の血を売ったりして」というユダの告白が、イエスさまの血をめぐる最も中心のことなのだと証言したかったからではあるまいか。罪なきお方の血を流したのは、ユダであり、祭司長たちであり、全イスラエルであり、マタイであり、そして私たちなのである。このユダがイエスさまの救いから永遠に洩れてしまったのだろうか。それは主のみがご存じのことである。私たちが判断することではなかろう。ユダよりも私たちの方が神さまの御国に近いとは、とても言い切ることができない。」