聖書に聞く

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事例26  イスカリオテ・ユダ(2)
「それで、彼はすぐにイエスに近づき、『先生。お元気で』と言って、口づけした。イエスは彼に、『友よ。何のために来たのですか』と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。」(マタイ26:47-50)


 前回は、著名な神学者である荒井献などが研究を発表して最近注目されている、「ユダ福音書」を紹介しましたが、それは初期教会史に極めて重要とされる異端、キリスト教グノーシス主義が遺した、ユダの裏切りを擁護するものです。それは彼らの教義を主張するための単なる想像に過ぎませんが、ともすれば、そのように自分たちの主張を正当化するために、聖書の記述を都合の良いように読み込んでしまう危険性を現代の私たちも抱えていると、そんな警鐘が聞こえるようです。今回は、イスカリオテ・ユダがイエスさまをなぜ裏切ったのか、その痕跡を探っていきましょう。

 私たちがイスカリオテ・ユダをどう読んでいくのか、本当は、従来さまざまに言われて来た見解を一つづつ丁寧に紹介しなければいけないのでしょうが、それほどの資料を持っているわけではありませんので、代表的かどうかは分かりませんが、いくつかの見解を紹介していきます。

 第一に、ユダは、12使徒表ではアルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモンという4人組に入っているところから、熱心党の一員であって、ガリラヤを本拠とする熱心党からイエスさまを利用するために送り込まれたのであろうと考える人たちがいます。もともと熱心党への忠誠心が原点にあって、イエスさまへの帰順は見せかけだけだったのだと……。

 第二に、イスカリオテとは「カリオテの人」という意味ですが、これを「シカリオス」と読む人もいます。いつも「シカリ」と呼ばれる鋭利な短剣を持って歩く、暗殺集団の一員というわけです。いろいろなことを考える人がいるんだなぁ~と感心しますが、言語的には同意しがたい見解です。

 第三に、イエスさまを売り渡そうとしたとき、彼は報酬として祭司長たちから銀貨30枚を受け取りました。マタイ福音書には彼が「いくらくれますか」と要求しています。またベタニヤのマリヤがイエスさまに高価なナルドの香油を注いだとき、「なぜ、この香油を300デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言っていますが、それをヨハネは福音書の中で、「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」と指摘しています。そこから、ユダは守銭奴であって、ただお金のためにイエスさまを裏切ったとする見解が生まれました。もっとも、(シケル)銀貨1枚は当時の労働者一日分の賃金だそうですから、金目当てとしては、あまりにも安価でしょう。ヨハネの言い方に、裏切り者憎しの感情が込められていたとしもおかしくはありません。単純な金目当ての裏切りとは考え難いのですが、考え過ぎでしょうか。

 第四に、新正統派と目されるドイツの神学者カール・バルトの見解ですが、詳しく言いますと紙面が足りなくなりますので、中心部分だけを簡単に紹介しましょう。バルトは、「ユダによるイエスさま引き渡しは、イエスさまの救いのわざを完成するためには、決定的に必要であった」と言います。この言い方は前回の事例25で紹介したユダ福音書に近いように感じられるかも知れませんが、バルトは、だからと言ってユダが断罪されないのではない。彼の罪は人を代表するものであって、彼はそれを回避することも出来たし、イエスさまは何度もその機会を与えた。にもかかわらずユダは、裏切りを回避することなく、「滅びの子」に向かって走ってしまったと言っています。もっとも、バルトの論調はここで終わらず、ユダの救いについての決定は、神さまの中に留保されているとしています。その是非を云々するのは私の力に余りますが、極めて聞き応えのある主張と聞こえてきます。

 第五に、福音派の見解に触れておきましょう。イスカリオテ・ユダは自分の意思によって神さまの恩寵を離れ、イエスさまを引き渡すという罪を犯した。しかも、その後、自分のいのちを断ったことで、救いの道が閉ざされてしまったと。しかし、残念ながら、それ以上の考察はされていません。