聖書に聞く

21
事例23 ヨセフスの「キリスト証言」

 「聖書に聞く」の事例は、聖書からこつこつと聞いていくことを主眼にしていますから、聖書からはずれるのは例外ですが、初代教会とほぼ同時代の著作で、とても興味深いものですから、ヨセフスの「ユダヤ古代誌」から、イエスさまのことを扱った箇所を紹介しましょう。

 「さてこのころ、イェースースという賢人(実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば)があらわれた。彼は奇跡を行う者であり、また、喜んで真理をうけいれる人たちの教師でもあった。そして多くのユダヤ人と少なからざるギリシャ人とを帰依させた。彼こそはクリストスだったのである。ピラトスは、彼がわれわれの指導者たちによって告発されると、十字架刑の判決を下したが、最初に彼を愛するようになった者たちは、彼を見すてようとはしなかった。すると彼は三日目に復活して、彼らの中にその姿を見せた。すでに神の預言者たちは、これらのことや、さらに彼に関するその他無数の驚嘆すべき事柄を語っていたが、それが実現したのである。なお彼の名にちなんでクリスティアイノイ」と呼ばれる族は、その後現在にいたるまで、連綿として残っている。」(ⅩⅧ63-64)
(ヨセフス「ユダヤ古代誌」秦剛平訳、山本書店1980)


 インターネットの百科事典ウィキペディアから、ヨセフスのことを紹介しましょう。
 フラウィウス・ヨセフス(AD37-100年頃)は本名ヨセフ・ベン・マタティアフ(ハスモン王朝の息子)、エルサレムの祭司の家系に生まれました。ユダヤ戦争の初期(66年)、防衛のためガリラヤへ派遣され、ガリラヤの町ヨタパタを守ってローマ軍と戦って敗れ、異邦人への投降をよしとしない守将たちは自決を決議、くじを引いて互いに殺しあいましたが、ヨセフスは最後の2人になったところでもう1人の兵士を説得して2人で投降。後の皇帝ウェスパシアヌス司令官の前に引き出され、ウェスパシアヌスがローマ皇帝になると預言して命を助けられます。ネロ帝死後の混乱を経て実際にウェスパシアヌスが皇帝になると、その息子ティトゥスの幕僚として重用され、エルサレム攻撃に参加。70年のエルサレム陥落を目撃しました。71年にティトゥスと共にローマに向かい、終生そこで暮らして厚遇を受け、ローマ市民権と皇帝の氏族名であるフラウィウスという名が与えられています。75年から80年までのある時期にローマで、経験と種々の資料をもとに「ユダヤ戦記」を著わし高い評価を得ました。さらに95年ごろ、天地創造からユダヤ人の歴史を説きおろした、スケールの大きな「ユダヤ古代誌」も完成させました。100年頃、ローマで死去したと伝えられます。

 この「キリスト証言」は、ヨセフスの真作だ、いや後世の加筆だと、いろいろと議論があって、今も決着がついていません。しかし、いづれにしても、これは非常に早い時期の証言であって、当時のローマを中心とするギリシャ語世界に、イエスさまがこのようなお方だったと伝わっていたことは疑いようもありません。そして、近代、欧米では、聖書とともに、ヨセフスの古代誌がベストヒット作品として読まれていることも、覚えておいていいのではないでしょうか。さて、注目したいところですが、「イェースースという賢人(実際に、彼を人と呼ぶことが許されるならば)」とあります。括弧内は後世のイエスさまを神とするキリスト者の挿入であろうとほぼ確定しているのですが、その主張は、当時のメシア運動に批判的だったヨセフスが、イエスさまの神性を認めるはずがないという理由からです。しかし、ヨセフスが20代後半まで生活していた当時のエルサレムで、イエスさまの弟子たちが活発に活動していたことを考えますと、果たして現代人の感覚だけで否定することが出来るのかと、疑問が生じます。ヨセフスは、ローマにいながら、ユダヤ人の頑ななまでの信仰を、ひたすら擁護しているからです。自分が信じないから否定してしまう、それはヨセフスではなく、少し乱暴な言い方をすれば、現代批評家の姿勢ではないかと思われます。その姿勢は、ヨセフスに対してだけでなく、聖書そのものに対しても同じであるように見えるのでます。