聖書に聞く

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事例22 ガラテヤ書2:16
「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知っていたからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」



 前回、エペソ書2:8を取り上げました。宗教改革の二人の立役者のひとりカルヴァンの「恩寵の神学」が、その箇所をソースとしていたからです。そして、カルヴァンのことを取り扱いましたから、もう一人の改革の立役者ルターも取り上げなければなりません。カルヴァンのエペソ書に対して、ルターはガラテヤ書と言われます。今回の事例、ガラテヤ2:16がその中心です。今回はルターの注解書紹介から始めましょう。昭和32年と古いものですが、黒崎孝吉訳のものです。

 「律法の行為とは広い意味の言葉で、その中に多くのものを含んでいる。一般にこれを恩恵以外のすべての事柄を含むと見て差し支えない。恩恵以外の事はすべて律法であって、律法的、儀式的なものはすべてこの中に含まれる。それゆえ、もし君が『汝心を尽くし精神を尽くし意を尽くし主なる汝の神を愛すべし』という誡に従って律法の行為を全うしたとしても、(実際は何人もこの誡を完全に行わず、また行なう事が出来ないが)、なお君らは神の前に義とされる事が出来ない。なぜなら人は律法の行為によって義とされる事がないからである。……イエス・キリストを信ずる信仰によりて義とされ、律法の行為によりて義とされない事は、キリスト者たるの真の道である。信仰は愛と善行がこれに結びついた時に初めて人を義とするのであると言う学者の誤った思想は避けなければならない。……パウロとともに我らは信仰によりて義とせられる事、すなわち愛をもって満たされた信仰ではなく、ただ信仰のみによって義とせられる事を論じなければならない。我らもまた愛や善行を教えなければならない事を認める。しかしそれは義とされるという問題に触れない時にのみ為されるべきである。これは我らが善行を排斥するからではなく、救いの錨から断ち切られないためである。サタンは我らがこの錨から断ち切られる事を最も希望している。それゆえ、今我らがいかにして義とされるかの問題について考える場合は、我らはすべての善行を排斥してこれを呪う。……律法は聖にして正しく、かつ善である。誠に然りである。ただ、義とされる問題に関する場合は、もはや、律法について言うべき時と処ではない。問題は、キリストは何であるか、キリストはいかなる恵みを我らにもたらしたかにある。キリストは律法ではない。また律法の行為の中には在したまわない。彼は生と死の主であり、罪と律法のもとにある中保者、救い主、贖い主に在したもう。我ら信仰によって彼に在り、彼我らの中に在したもう。それゆえに罪と死とに対する勝利、救い、永生は、律法の行為によって来るのではなく、主イエス・キリスト彼自身のみから来るのである。……」

 ルターが中心とした神学が、信仰義認であるとお分かり頂けるでしょう。この「ただ信仰のみ(ソーラ・フィディ)」は、「ソーラ・スクリプトゥス(ただ聖書のみ)」と共に、宗教改革の旗印となりました。現代教会には、「福音主義」という枠組みがあります。それは、この宗教改革の伝統を受け継いでいるという、誇りを込めての言い方です。カルヴァンの「恩寵の神学」をも含め、信仰義認も聖書信仰も、この枠組みで受け止めなければなりません。実は、ガラテヤ書のこの箇所「キリスト・イエスを信じる信仰」という言い方は、ギリシャ語原典では「キリスト・イエスの信仰」となっています。神学界で「所有格信仰」と議論される難解なもので、簡単には説明できませんが、信仰の主体はイエスさまであるという、パウロの意識なのでしょう。ルターは、パウロの意識を見事に引き継ぎました。それは、神さまが恵みを与え、私たちが信仰をもって受け取るという、神人の協力で救いが完成するものでは断じてありません。ちなみに、「キリスト・イエスの信仰」を、パウロはロマ書3:22でも用いています。