聖書に聞く

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事例21 エペソ書2:8
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」


 宗教改革者の二人の立役者はマルティン・ルターとジャン・カルヴァンですが、彼らがそれぞれの神学の土台とした、パウロ書簡があります。ルターはガラテヤ書、カルヴァンはエペソ書というのが定番です。もっとも、偉大な先輩二人をそれだけで語ることは、もちろんできませんが……。今回はカルヴァンのエペソ書からです。中でも彼の「恩寵の神学」は、この箇所に基づいていると言われています。こんな短い中に、イエスさまの福音が、総合的にぎっしりと詰まっていて、確かにこれは、一つの神学大系が生まれてもおかしくない聖句だと思われます。小さなエッセイなどではとても網羅し尽くせませんが、いくつかのことを取り上げてみたいと思います。まずは、カルヴァンの「エペソ書註解」からです。

 「彼は選びと無償の召命とについて語って、『信仰によって彼らは救いを得た』という要旨に到達しようとするのだから、彼はまず、エペソ人の救いは神のわざであって、それ以外のものではない、すなわち、それは無償のわざであるということ、また彼らの側から言えば、彼らはこの恵みを信仰によって抱き、受け入れたのだということを確証する。それは神の側と人間の側とから考えねばならないからである。彼は、神はわれわれに何ものをも負わせない、神がわれわれを救うのは純粋な恵みであって、褒美や報酬ではない、と言う。そのあとで、人間がどのようにして、神の手から彼らに差し出された救いに与るとされたか、ということを知らねばならないのである。パウロは、それは信仰によると答えていて、そこから彼は、それらすべてについて、われわれのものは何ひとつない、と結論する。神の側から言えば、あるものはただ恵みのみであり、われわれについては、信仰以外にはなく、その信仰がわれわれからあらゆる賞賛を剥ぎ取ってしまうとすれば、当然、われわれから出るものは何一つないということになる。このようにして、自由意思も、よき意図も、人間が考え出したさまざまな準備も、功徳も償いも、まったくやんでしまわざるを得ないではないか。なぜなら、このようなもののどこにだって、人間の救いに対する賞賛の一部を、帰しうるようなものは何一つないのだから。さもなければ、パウロが恩寵にたいして捧げるべきだと述べている賛美が、全然なされないことになってしまうであろう。一方人間の側について、救いを信仰において受け取る方法のみを設定することによって、彼は人間がこれまで頼ることに馴れてきたその他の方法を斥けている。ところで信仰は、人間がキリストの富に満たされるために、人間を空しくして神のもとに連れ来たる。そこで彼はこうつけ加える。『諸君自身から出たものではなく』それは、自分には何ものも僭取せず、自分の救いの唯一の原因は神を認めるためである。」(カルヴァン「新約聖書注解・エペソ書」新教出版、1962)

 カルヴァンは、「パウロは徹底的に神さまの主権のもとで一方的に恵みを与えたのであると言う」と言います。そのとき、「信仰によって」と、恵みを受け取る側にもある種の責任が生じるとしていますが、彼は、「私たちには何一つ賞賛に値いするものは残らない」と結論づけています。むしろ、「信仰は、救いが神さまの一方的な恵みであることを承認する」と言っているようです。テキストに戻りますと、原典の文脈で、「神さまの賜物」は、「恵み」と「信仰」の両方にかかっています。ですから信仰も、「自分自身から出たことではない」のです。そのことが強調されているのは、当時、恵みは神さまのもの、信仰は自分のものという二元論が神学の主要部分を占めており、「そうではない」とする神学が宗教改革の中心論点に据えられなければならないとして、戦いが始まったからです。今でも神さまと人間という二元論の世界観は、現代思想の中心にあるようです。神さまあっての私たちであって、私たちが世界の中心ではないと、私たちの立ち位置を明確にしておこうではありませんか。私たちが生きるのは、神さまの恩寵によるのであり、主イエスさまの十字架とよみがえりのみによるのだと。