聖書に聞く

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事例19 詩篇4:1
「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときに、ゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。」


 これは祈りの詩篇でしょう。表題に「指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌」とありますから、ダビデの原詩と思われます。弦楽器は竪琴。片手で抱え片手でつま弾くタイプのものだったのでしょう。ダビデは、少年のころから竪琴の名手でした。「指揮者のために」とありますので、多数の演奏者たちによって演奏されることが前提にされていますが、歴代誌上6:31に、「箱が安置所に納められて後、ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々は次のとおりである。彼らは会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。仕えた者たちとその一族は次のとおりである。ケハテ族からは歌い手ヘマン……」とあるなど、賛美をもって主に仕える者たちのことが、いくつか記録されています。また、ダビデが竪琴をもってサウロ王の怒りを鎮めたこともあり、詩篇がそんな役割を果たしたことは確かなことと思われます。

 イスラエルには、礼拝を賛美で彩る伝統がありました。その賛美は、イスラエルの民たちの信仰の告白であり、祈りであり、感謝でもありました。ところが、列王記や歴代誌などイスラエルの歴史を見ていますと、神さまのことを忘れ、近隣の高度な文化に憧れ、その中心を担う異邦の神々を取り入れることに夢中になっていた歴代の王たちの時代には、その礼拝すら行われた形跡がなく、そんな生き生きした賛美など、どこかに消えてしまっているようです。長い間イスラエルは、そのような時代でした。ダビデはBC1000年代の人ですから、以後、約300年以上もの間、賛美は失われていました。それが多少なりとも変化したのが、ヨシア王(BC639-609年)の時で、修理中の神殿から律法の書(申命記?)が発見され、大規模な宗教改革が行われ時だったようです。会衆の前で聖書の朗読が行われましたから、礼拝賛美も復活しただろうと思われます。しかし、それも、ヨシア王がエジプトとの「メギドの戦い」で戦死しますと、たちまちもとの木阿弥になってしまいます。預言者エレミヤが、「バビロンに捕らわれよ。そうすれば生きる」とのメッセージを取り次いだのも、主にその時代のことです。BC605年に、エホヤキム王など少数の人たちが、バビロンに捕らえ移される事件が起こります。これを第一次捕囚と呼ぶ人たちもいますが、賛美が失われたことがどんなに重大な結果を生むか、現代の私たちも心しておかなければならないでしょう。

 賛美が復活したのは、悲しいことに、バビロン捕囚の時でした。遠い異国のシナゴーグで、主を礼拝するために聖書が結集され、編集されたと考えるなら、詩篇を中心にした礼拝賛美が復活し、竪琴に合わせて聖歌隊や会衆の賛美がシナゴーグの礼拝に響き渡ったであろうと、その光景を想像します。特にこの1節は、礼拝に集まった人たちのシオンを想う思いに、格別の響きが込められていたと感じます。新改訳では伝わって来ませんが、二行目の「ゆとり」は、「広いところ」という意味です。バビロン市の南方60㌖のニップル市近くの灌漑用水路・ケバル川沿いにある、捕囚民ユダヤ人のコロニーで重労働をしている人たちが、エルサレムを恋い慕って歌う賛歌、哀歌が聞こえて来ます。広さから言うなら、ケバル川のほとりは、エルサレムよりずっと広いでしょう。しかし、捕囚の民にとってそこは、閉じ込められた世界なのです。1000㌖も離れた故郷の空が、どんなに広く大きく慕わしいものであったことか。ダビデがこの歌を歌った背景は分かりませんが、しばしば犯した罪の中で苦しんで来た、王の思いが歌われたのでしょうか。主とともにある心の広さを見失い、上を見上げることの出来ない悲しみが、捕囚の民に重なって来るのです。現代の私たちも同じです。賛美も感謝も喜びも、うつむき、下を見ていては生まれません。辛く悲しいときにも、上を、主を見上げるなら、広い心を取り戻し、賛美も感謝も喜びも溢れて来るのではないでしょうか。そんな信仰が、ここから聞こえてくるようです。捕囚の民が聞いたように……。