聖書に聞く

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事例18 列王記下2:15
「エリコの預言者のともがらは、遠くから彼を見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』と言い、彼を迎えに行って、地に伏して彼に礼をした。」


 この記事は、預言者エリヤが天に上げられ、弟子エリシャがその後継者になるという場面です。エリヤは、聖書中、死なずに神さまのもとに召されたという三人(エノク、モーセ、エリヤ)のうちの一人ですが、前期預言者に属し、預言者の系譜は彼から始まりました。「エリコの預言者のともがら」とありますから、エリヤの根拠地は、エリコの近くだったのでしょう。ともがらとは仲間のことで、エリシャは、エリヤの弟子ではなかったかと思われます。弟子は50人もいました。

 当時の預言者は集団であって、預言者学校と呼ばれています。街角に立って、師匠が町の人たちにメッセージを語るという、いわゆる辻説法ですが、弟子たちはそのメッセージを書き留め、それを他の地域にも伝えました。そのようにして預言思想を学んでいったのです。「預言」はしばしば、未来のことを語る「予言」と勘違いされますが、託宣、占いのたぐいではありません。神さまのことばを取り次ぐ行為です。その意味で、天使も使徒も宣教者も、伝道者も同じでしょう。自分の思想やメッセージを語るのではなく、自分を預言者に招いて下さった方のメッセージを取り次ぐのです。現代キリスト教会の牧師も、同じ任にあると言えるでしょう。伝道者に召された時、恩師から、「預言者として召されたことを忘れてはならない」と言われました。預言者なら、神さまのことばを取り次ぐのは当然です。しかし、牧師ということで、ただ分かりやすいことだけを心がけ、神さまのことばが疎外されるケースが多いのではないかと、これは、私自身への戒めです。

 ところが、預言者の弟子になったからと言って、必ず師匠と同じところに立てるかと言うと、そうではありません。この預言者のともがら50人は、エリシャよりも早くエリヤの弟子だったと思われますが、彼らの名前は記録されていません。後継者は、彼らより後に弟子になったであろう、エリシャに決まりました。彼らが「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言ったのは、それを認めたということでしょう。人間的なことは、ここから排除されています。彼らがそのままエリシャの弟子に移行したかどうかは分かりませんが、「地に伏して彼に礼をした」とありますから、恐らく弟子になったのでしょう。エリシャに弟子たちがいた形跡が、9:1にあります。残念ながら、エリシャの死後、後継者が出たという記事はありません(13:20-)。しかし、預言者の系譜は途絶えることなく、後期預言者と呼ばれる、記述預言者・イザヤ、エレミヤなどに受け継がれました。

 預言者集団はイスラエルの伝統で、各時代、各地域に、いくつものそんな集団があったようです。その多くはスポンサーを見つけ、雇い主に耳当たりのいいメッセージを語っていたという歴史があります。彼らはイザヤなどから偽預言者と厳しく糾弾されていますが、特にそんな集団が排出したのは、北イスラエル王国や南ユダ王国の滅亡時、そして、バビロニヤ捕囚時とそれ以後の中間時代など、混乱期に集中しているようです。ある意味で、自称メシアも、その部類に入るのでしょうか。綿密に検討しますと、そんな預言者集団の流れは、新約聖書時代にも途絶えていなかったようです。エレミヤは、ユダヤの滅亡を語り、バビロンの傘下に下るよう言い続け、売国奴となじられ、「悲しみの預言者」とまで言われましたが、預言者の多くは、「滅びることはない」と、むなしい希望を語り続けていました。彼らは、神さまの選びの民・イスラエルが、いかなる危機をも乗り越え、ダビデに約束された永遠の王国を保持して行くと疑いませんでした。それがユダヤ人の揺るがない神学、信条であり、彼らの国家神学であったと指摘されています。イエスさまが戦ったのは、そんなむなしい国家神学にしがみつく、パリサイ人や祭司長たち、長老たちでした。現代の私たちも、本物の預言者として立とうとするのか、偽預言者であり続けるのか、その立ち位置を考え直す必要がありそうです。