聖書に聞く

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事例12 箴言28:27
「貧しい者に施す者は、不足することがない。
しかし、目をそむける者は多くののろいを受ける。」


 箴言の「施し」という言葉自体、この箇所と11:24と19:17の3カ所に出て来るだけで、多くはありませんが、それでも、箴言の中の大切な教えになっています。「あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、『去って、また来なさい。あす、あげよう』と言うな」(3:28)、「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される」(11:25)、「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない」(21:13)というところも、「施し」という言葉は使われていませんが、同じ意味でしょう。またアイロニーになっているところもあります。「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ」(22:22-23)「施し」は神さまに喜ばれる生き方で、これは神さまへの信仰であると理解されていました。箴言のひとつの中心となっています。

 「施し」のルーツは、もちろんモーセの律法でしょうが、そこまで遡らなくても、バビロン捕囚のユダヤ人たちが教えられた生き方の中に、これを見出すことができるようです。旧約外典にトビト書というのがありますが、そこから紹介しましょう。捕囚期のユダヤ人トビトの生き方を描いた、トビト物語とでもいうものです。イエスさまの山上の垂訓にも、これが生きているようです。

 トビトは捕囚の地ニネベにあって、故郷にいたときのように忠実に律法を守り、異邦人のパンを食べず、貧しい人たちへの施しと、放置されている同胞の屍を手厚く葬ることに熱心でした。物語はトビトの失明後、息子トビヤに天使ラファエルが付き添い、メディアの親族ラグエルのところまで旅をしますが、その娘のサラと結婚し、年老いたトビトのところに戻って来るというものですが、何カ所か、トビトの息子に対する教えが記されています。「子よ。生涯を通して主をおぼえ、罪を犯すことや主の戒めに背くことを望んではならない。不義の道を歩んではならない。真実を行なう人々の業は栄えるからである。すべて正義を行なう人たちにはあなたの所有物から施しをしなさい。あなたが施しをする時、あなたの目がねたむことのないように。あなたの顔をいかなる貧しい人からもそむけてはならない。そうすれば神の顔もあなたからそむけられることはない。あなたの持てるものに従って、その中から豊かに施しなさい。あなたの財産が少なければ、わずかでもよいから恐れずに施しなさい」(4:5-7)

ここに用いられる「施し」は、罪の赦しにつながり、救いの前提条件とも見なされていました。これは、神さまへの献げものだったのです。トビト書が書かれた年代は分かりませんが、BC200年ころとされていますので、箴言よりもずっと遅いのですが、捕囚の民のシナゴグでの礼拝でそう教えられていたことから、トビト書が生まれたとも言えるでしょう。箴言のルーツがトビト書なのではなく、トビト書のルーツが箴言なのです。トビトが住んでいたチグリス川沿いのニネベは、アッシリヤ帝国の首都でしたが、アッシリヤ滅亡後も、小都市として存続していたようです。メディア王国について、詳しいことは分かっていません。イラン北西部を中心に広がっていたそうですが……。

トビト書は、旧約聖書正典に含まれていません。ですから、私たちはめったに読むことはありませんが、外典なりに、いくつもの大切なことを教えてくれます。聖書のメッセージを聞こうとするとき、ときには有用なヒントをたくさん教えてくれますから、本棚に備えておいてはいかがでしょう。教文館出版の「聖書外典偽典」シリーズで全10巻がありますが、古本で入手できるでしょう。また、箴言に「貧しい者に施す者は、不足することがない。しかし、目をそむける者は多くののろいを受ける」とあるのは、それが捕囚の民に対する大切な教えであったからですが、逆に、それがないがしろにされていた、という面があったことも忘れてはなりません。捕囚の民が次第にバビロンの悪い風習に馴染んで行く様子が、見え隠れしているようです。現代の私たちはどうでしょうか。「みことばを大切に!」という声が上がっていますが、それは、大切にされていないからとも言えます。