聖書に聞く

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事例11 詩篇137:1-5
「バビロン川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木に私たちは竪琴を掛けた。それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめた者たちが、興を求めて、『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。」


 バビロン川とありますが、これはおそらくケバル川のことでしょう。イラクのバグダッド市から160㌖、バビロン市からは70㌖ほど南にくだったところにあります。ここはかつて、アッシリヤ人の要塞があったニップル市のそばを流れる、農業のための灌漑用運河だそうです。ユーフラテス川から引いていました。新バビロニヤ勃興の戦いで荒廃し、減少した人口を補うために連れて来られたユダヤ人の、移住先になったと考えられています。移住先は一カ所だけではありませんでしたが、多数のユダヤ人が配置された二カ所のうちの一カ所が、そこであったろうというわけです。もう一カ所は熟練した職人たちのもので、バビロン市の建設事業のためでした。バビロン川のほとりということで、すぐに思い浮かべるのは、ケバル川です。広大な乾燥地帯に造られた人口運河で、大きく直線的なものですが、今は、周囲にさまざまな建造物が並んでおり、中には非常に古いバビロンの名称を持つものも見られるようです。そんな古い建造物も、もしかしたら彼らが造ったものではないかと想像してしまいます。もっとも、そんな古いものは、残存していたとしても、崩れ落ちた廃墟、遺跡でしかないとは思いますが。行って現場を見て来たような言い方をしていますが、見たのはグーグル・アースです。十分とは言えなくても、そこに立っているかのような気分になりました。

 このケバル川に配置されたユダヤ人は、もちろん種々雑多な仕事についていたのでしょうが、基本的には開拓農業だったようです。メソポタミア文明は、基本的には農業文化です。そしてそれは、最新の文明でした。もっとも、ニップル市の歴史は古く、紀元前6千年紀ころに居住が始まり、シュメール時代には、最高神エンリルを都市神とした宗教的中心地になっていたそうですから、灌漑用水路建設にも力がいれられたと思われます。が、歴史が長く、中心都市だったということは、幾多の戦火にさらされて来たことを意味します。BC1739年に発生した、大規模な反乱によって壊滅的被害を受け、ニップル市は残ったものの、都市機能は失われてしまったそうです。そんなところで苦労しているユダヤ人が、ヤーヴェ礼拝で竪琴を奏でることを大切にしている。彼らの信仰が窺われるではありませんか。

 ユダヤ人のバビロン捕囚時に、エンリル神が健在であったかどうかは分かりませんが、もしかしたら、バビロンの主神マルドゥクが支配していたのかも知れません。いづれにしても、ユダヤ人コロニーのすぐ近くに異教徒たちが拝する神殿がありました。それなのにユダヤ人は、自分たちだけの礼拝を行ない、そこで賛美の歌を歌い、祈り、預言者(恐らく祭司?)のメッセージを聞いていました。いわゆるシナゴグ・ユダヤ人会堂での礼拝誕生です。彼ら異教徒たちは、その礼拝を垣間見て、そこには神殿もなければ、神像もない、そんな不思議な礼拝から、賛美の歌を聴かせよと催促したのでしょう。彼らに聴かせる賛美ではありません。竪琴をケバル川のほとりの柳の木にかけたのは、もちろん、拒否の意思表明です。支配者への拒否がどのような意味を持つのか、分からないはずはありません。それなのに彼らは、拒否しました。この詩篇には、拒否の結果がどうだったのか、何も記されていません。しかし、「敵」が彼らを嘲り、不当なしいたげを繰り返したことは、詩篇の各所に見られます。彼らはそれに耐えたのです。彼らの祈りには、涙のあとがたくさん見られます。そして、この詩篇には、「なぜ?」と主へのつぶやきはありません。これは主への賛美なのです。悲しみの歌が主への賛美であることに、驚きを禁じ得ません。心を注ぎだしたからこそ、その嘆きを主が聴いてくださると、それは彼らの信仰なのでしょう。楽しく嬉しいときに、主を礼拝することは幸いなことです。しかし、悲しく辛いときに、その憂える心を注ぎ出す賛美も、また主への礼拝なのだと聞きたいのです。