聖書に聞く


 今、聖書に触れることが、非常に少なくなっているそうです。日本だけではなく、それは世界的傾向のようですが、私たちクリスチャンにも言えることです。そして、それは、聖書に魅力がなくなったからではなく、聖書の魅力に、私たちが気がつかなくなっているからではないでしょうか。もしかしたら、教会の講壇から語られるメッセージも、聖書から離れてきているのではないかと不安になります。

 しかし、聖書そのものに込められたメッセージは、実に魅力に富んでいるのです。是非、聖書そのものに聞いてほしいと願います。そこには、世界中のどんな読み物よりも、おもしろい世界が広がっていくでしょう。そして、現代に溢れる多くの問題も、相当数、解消出来るのではないでしょうか。古い、大昔の書物ですが、決して色あせることなく、それどころか、現代の私たちがどこに向かおうとしているのか、その道筋を示してくれるはずです。聖書を読んで頂きたい。その願いから、この「聖書に聞く」という連載を思い立ちました。

 聖書は、読み物というより、聞くものなのです。聖書がどう語ってくれるのか、その聞く作業を重ねてきた中から、わずかなものですが、お伝え出来たらと願います。何回になるかわかりませんが、よろしくお付き合いください。


事例1 マタイ福音書5:14
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない」(新共同訳)


 これは、第35代アメリカ合衆国大統領・ジョン・F・ ケネディが大統領就任演説で引用したことで有名な、イエスさまのことばです。1961年のことですから、ご存じない方もあるかと思いますが、非常に格調の高いものでした。大統領の演説はさておき、「聖書に聞く」第一回目の事例は、「あなたがたは世の光である」と、ここに焦点を合わせていきたいと思います。

 内容としては、「あなたがたは〜である」と「世の光」、と二つありますが、今回は「あなたがたは〜である」を見ていきたいと思います。意外と思われるかも知れませんが、実はこちらのほうがより重要なのです。これは英語で言えば、You are. ということで、目的語または補語を伴わなければ意味をなしません。しかし、ここには、重要な意味が含まれています。

 イエスさまのことばには、「わたしは道である」「わたしは門である」「わたしは真理である」「わたしは羊飼いである」など、「わたしは〜である」がとても多いのですが、特にヨハネの福音書に多い表現です。それには理由があります。それは、ヨハネが、イエスさまは神さまご自身であるということを、極めて大切にしているからです。イスラエルの人たちがエジプトで奴隷になり、苦しんでいたとき、神さまが彼らをエジプトから救い出そうとモーセを選び、イスラエルの人たちのところに遣わそうとします。モーセはそれを何とか辞退しようと、いろいろと言い訳をし、神さまに言いました。「私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか」(出エジプト記3:13) 神さまは答えられました。「わたしは『わたしはある』という者である。『わたしはある』という方が、私をあなたがたのところに遣わされたと言え」(同3:14) この「わたしはある」(I am that I am.) が、神さまのお名前になったのです。神さまは、(be動詞から派生した)と呼ばれています。イエスさまは、それをご自分に用いられたのです。つまり、「わたしはある」者である、と言われたのです。英語だけでなく、欧文で I am. は、神さまだけにしか用いられない用法です。その用法は、もちろん聖書から来ています。

 ですから、私たちは「あなたは〜である」とイエスさまに言われるなら、それを、「わたしはある」というお方からの宣言として聞くのです。永遠に存在されるお方からの、祝福のことばとして、「あなたはある(いる)」と……。私たちがいのちを尊いものとするのは、その主なるお方から、「あなたは尊い」と認定されたことによります。そしてその認定には、尊い者として立つあなたの歩み方が問われていると知らねばならないでしょう。世の光として、地の塩として立つかという問いかけです。弱い人を思いやり、慰めを与える者になっていくか、と聞くのです。自分に問うなら恥ずかしいばかりですが、その志は持ちたいと願います。