へりくだって

                      ピリピ書 2:1−5
レビ記  19:17−18
T キリスト者の生き方は

 「こういうわけですから」(2:1)とパウロは、1:27−30で「反対者」のことに触れ、迫害が迫る中で、イエスさまを信じる信仰に一致し、この世との戦いを戦い抜くように勧めましたが、2章では再び分派を暗示するかのような勧告に戻ります。キリスト者として隙を作り、迫害者たちに付け入らせてはならないという勧めなのでしょう。そのためには、クリスチャンとしての信仰に立った生き方を確立しておかなければなりません。その生き方がここに取り上げられます。

 「あなたがたにいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(1−2新共同訳) パウロの勧めがいよいよ具体的になってきました。まず前提が語られます。励ましも愛の慰めも、最初に並べられる5つの徳目はみな「キリストによる」というもので、この「キリストによる」があるかないかが、世の人たちとの大きな違いではないでしょうか。人格的に「立派な」と見られる人たちは「世」にもたくさんいて、反対に、「クリスチャンなのにどうして」と疑問を感じるような人たちがいます。しかし、「キリストによる」と条件がつけられるなら、世に言われる人格者であるかないかが問われることはないのです。はた目には欠陥が多いと見える者であっても、イエスさまを信じたところから誰かを愛することを覚え、誰かを励まし、ほんのひとかけらでも憐れみがその人の中に育っているなら、それは十分な愛であり、慈しみであり、憐れみであると主が認めてくださるのです。パウロが「いくらかでも」と言ったのは、ピリピ教会の人たちにその原則を思い出してほしかったからでしょう。

 そのような信仰による「人を思いやる心」があるなら……、励ましも慰めも憐れみも、それを必要としている人のことを第一に考えよということでしょう。「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心」は、確かに、イエスさまを信じる信仰の中から生まれて来るものです。そのように受け止めますと、パウロの「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(2)という勧めは、信仰の本質の部分だとお分かりいただけるでしょう。


U イエスさまに思いを集中して

 ここでパウロは「一致」を強調するためでしょうか。「同じ思いとなり」、「同じ愛を抱き」、「心を合わせ」、「思いを一つにして」(新共同訳)と、1節の「愛」が教会の中に一つの同じ思いになっていくようにと勧めています。4つのうち3つまでが違うことばで、パウロだけが気をつけて用いた言い方のようですので、新改訳のように「一致を保ち」、「同じ愛の心を持ち」、「心を合わせ」、「志を一つにし」と工夫した方がいいのかも知れませんが、どうも良く分かりません。最初と最後の「思い」は、<考える>とか<心を引かれる>という同じ意味のことばであり、「心を合わせる」は、<一つの魂>という意味です。「愛」は言うまでもありませんが、パウロは、彼独特の繰り返しことばを用いることで、イエスさまのことに集中する信仰の一致を求めているようです。

 ところで、考えてみたいのですが、一致とは、興味や実益が同じというように、共通の接点があってはじめて可能ではないでしょうか。教会ではその接点が、イエスさまを信じる信仰だというのです。それ以外ではまるで違う人たちの集まり、貴族と奴隷が兄弟姉妹と呼び合う関係は、通常の社会ではあり得ません。ところが、現代の教会にも見られることですが、この接点をしばしば信仰以外のとこに求めることがあります。一緒に食事をするのが楽しいとか、聖歌隊など、同じ奉仕仲間の中に連帯意識が生まれていくのです。かつて九州の田舎の教会で、青年たちが非常に強い奉仕の連帯意識で結ばれ、和気藹々と教会活動をしていました。余りにその連帯意識が強いために、他の人がその交わりに入ることが出来ないと指摘されたほどでした。

 ここで取り違えてはならないと思うのですが、イエスさまを信じる信仰だけが唯一の一致点であって、それ以外は何から何まで違う人たちの集まりが教会であるということです。その信仰が一つの愛(十字架のイエスさまに愛され、イエスさまを愛し、そして、その愛が他の人にも及んでいく)に結晶されていくことを除いて、同じカラーにすることが教会形成の本分ではないと、十分認めておく必要がありそうです。教会とは、イエスさまを信じる信仰によって繋がる愛の共同体であって、私たちの愛が先にあるのではりません。十字架に愛を現わしてくださったイエスさまを信じる信仰が、クリスチャンの第一の中身でなければならないのです。


V へりくだって

 もし、信仰以外の接点で結ばれる交わりなら……、パウロはキリスト者の一致という原則を念頭に、こう言うでしょう。「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」(1:27)と。 「ふさわしく」という言い方はローマ市民権に関係あることばで、その在り方は徒党を組んで自分の存在をアッピールするというものでした。そういう意味で、分派は決して悪いことではなかったのです。ピリピ教会の人たちにとって、その表現は良く分かるものでした。ここで彼らは、ローマ市民としてではなく、「キリストの福音」、つまり天国の市民としてふさわしくあるべきと聞かなければならなかったのです。信仰以外の接点は、天国の市民としてではなく、ローマ市民とか日本人とか、この世的な接点をイエスさまを信じる群れの中に持ち込んで来る恐れがあり、その心配が非常に大きいとパウロは指摘しているのかも知れません。「キリスト教国」ではない日本に育った私たちには、日本人の常識を教会に持ち込む危険性が非常に大きいと、特に気をつけなければならないことでしょう。

 パウロは、そのローマ人的価値観に、更に踏み込みます。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分より優れた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」(3−4) 自己中心と虚栄、これはローマ人的普通の生き方でした。これを自分の中から取り除く、教会の中で自分の存在を示すことが何故悪いのか、その価値観に立つ者たちには理解し難いことだったでしょう。私たちにしても、「自我が芽生える」とは、一人前になり始めたことを意味します。もちろん、それは良い意味での自己主張ですが、自己中心とそれは、区別できないほど似通っています。それを虚栄と聞くと悪いと思いますが、自己主張が少し強くなったものと聞きますと、それほどのことではないと考えます。しかしそれが、人を押しのけてまで「自分が」という主張になってくると、ついにはイエスさまさえも押し退けかねない問題となってくるのです。

 そんな私たちに、パウロは、「へりくだり」こそ信仰者にふさわしい生き方であると、これ以上ないというほど鋭い指摘を突きつけました。心を一つにする信仰の奥義とも言えるところです。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」(5) イエスさまの何が模範かは6節以下で聞くところですが、信仰者として、主がそうされたのだから私たちもそのような生き方を志したい、そのための信仰の苦闘でありたいと願います。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19:18)とあるように。