信仰の戦いを

ピリピ書  1:27−30
出エジプト 17:8−16
T キリストの福音にふさわしく

 ここしばらく、信仰のステージと聞いています。先週、パウロがいのちを永らえて「あなたがたに会いたい」との願いから、イエスさまを信じる信仰は、私たちが一緒に祈り、賛美し、主を礼拝することであると聞きました。信仰告白である第一ステージと、信仰の場としての第二ステージに区別があるわけではなく、イエスさまを信じる私たちの告白は、生活の中にあると聞かなければなりません。ただ、成長すべき信仰の事柄は第二ステージにおいてであると、パウロの祈り(9−11)が語られたのです。ピリピ教会の人たちは頭でっかちの信仰に走っていたのでしょうか、それが伝道に熱心という分派の問題にまで進んでしまったようです。「生活の中で」の信仰、それがこれからしばらくのパウロの中心主題のようです。

 「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについてこう聞くことができるでしょう」(27)

 パウロにとってピリピ教会の人たちは身内ででもあるかのようになつかしく、その消息を気にしていたのでしょう。パウロは、彼らの信仰が青竹のようにぐんぐん成長していくのを見たいと熱望していました。彼らが「霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことにがあっても、反対者たちに驚かされることはない」と聞きたかったのです。それは、信仰の根本的部分での一致でした。彼らの中に分派があることなど、パウロの念頭から消えているようです。そんな次元のことではなく、イエスさまを信じる信仰は、キリストの霊による一致、信仰の心が通い合うことだと聞こえてきます。祈りと賛美とみことばに聞くことからしか、そのような高嶺へ登っていくことは出来ません。「奮闘」とありますが、これは「努力」と考えてはならないことです。新共同訳が「戦う」と単純に訳しているように、信仰の戦いを意味していると受け止めなければなりません。ここにも祈り、賛美、みことばという礼拝の基本的姿勢が語られています。


U 信仰の一致を

 ピリピ教会に起こっている、分派などというちっぽけなことではなく、パウロは、もっと先の世界に広がる教会の姿を語っているようです。「反対者」とあります。分派の一方を占める「党派心から福音を宣べ伝えている」人たちのことかと思いましたが、そうではないようです。27節や30節には「戦い」とあり、29節にも「キリストのための苦しみ」とありますので、恐らく、先週かいま見た迫害が、教会の中心主題に上って来ているものと考えられます。ピリピ教会には、小アジヤ教会で深刻な問題となっている、ローマ人貴族によるその家のクリスチャン奴隷への迫害という事態はまだ起こっていないだろうと触れましたが、クリスチャン迫害という流れはローマ全体の方向でしたから、ピリピだけがそれから免れることはないとパウロは考えていたのでしょう。ネロ皇帝による迫害を皮切りに、200年以上にも渡る迫害の時代が幕を開けます。そして、実際にそのような兆候が起き始めていたのかも知れません。「反対者」とは、そのような兆候で見られる人たちのことと考えられます。パウロはそのような歴史の流れを見つめていましたから、教会内の分派などは小さな問題にしか映らなかったのでしょう。

 もっとも、その小さな問題が時として大問題に進む可能性もあります。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」(4:2)と言われるのはその心配からでしょう。「霊を一つにし、心を一つにしてしっかりと立ち」とは、教会全体に襲いかかって来ようとしている世の力に対抗し得る唯一の力・神さまの力なのです。

 戦いには、神さまの力を身にまとう必要があります。エペソ書には「神のすべての武具をとりなさい。腰には真理の帯、胸には正義の胸当て、足には平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊のつるぎである神のことば、御霊によって祈り」(6:13−18)とあります。「驚かされる」(28)とあるのは「脅されてたじろぐ」(新共同訳)のほうが分かりやすいでしょう。口語訳は「敵対する者どもにろうばいさせられない」と訳していますが、決して2000年前のパウロの時代だけではなく、現代、私たちの廻りにも、そのような敵対者が増えつつあると気づかなければなりません。主の武具を身にまとう必要は、現代の私たちにも重要性を増しているのです。


V 信仰の戦いを

 最近、私はトラック乗務の仕事を始めました。昼は市内を走り回り、夜になってから中距離(といってもさすがに大阪などの近いところを)の配送、帰宅は真夜中の2時とか3時といった具合です。その中で信仰をどのように守るか、私にとっての信仰の戦いです。若い人たちと同じように仕事をこなすこともですが、くたくたに疲れてしまう中で、そのような生活を続け、それでも信仰を守り通している兄弟姉妹たちの並大抵ではない戦いを、同じように味わうという戦いです。そして、何よりも世のまっただ中に置かれながら、祈り、賛美し、みことばを新鮮に聞き、イエスさまの民として立ち続ける戦いでなければならないと受け止めています。このメッセージの準備も、帰宅してから少しは机の前に座ろうと決心して……、しかし、そこに喜びが……。主の助けを頂いていると感じます。とは言っても、手抜きの多い苦闘ですが……。

 恐らく、初期のクリスチャンたちは、日曜日が休日ということはなく、「週の初めの日」を礼拝の日として定めても、その礼拝は夜になってから行われたのでしょう。使徒行伝に、週の初めの日、パンを裂く(聖餐式)ために集まった人々が夜中までパウロの話を聞いたと、トロアスでの記事がありますが(20)、三階の窓でうとうとしながら聞いていた青年が、落ちて死んでしまうという事件が起こりました。幸いにも彼は生き返りますが、現代人以上にハードな日常の仕事をこなし、クリスチャンとしての誠実な歩みを重ねている姿が浮かんできます。

 「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(29)とあります。苦闘とは、そんな歩みを指しているのではないでしょうか。それが誠実な信仰者の姿でしたから、反対者たちへの証しにもなっていたのでしょう。「賜る」は「恵み」と同じことばを語源としています。そのように主につながっている時に、戦い・わけても苦闘は、主からの恵みとして賜るものであると聞えてきます。パウロ自身そのような苦闘を続け、たくさんの恵みを主から頂いていたと思うのです。

 信仰が賜物であることに私たちは異議を唱えません。しかし、キリストのために苦しむことも恵みだとは、驚きではありませんか。信仰と苦しみがどこでつながるのか、「戦い」が接点と聞こえてきます。「あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです」(30) その戦いを信仰の戦いと聞くなら、主が先頭に立ってこの2000年を戦ってくださったことがお分かりでしょう。華々しくはなくても、同じ信仰の告白をささげながら、戦って、苦しんで、パウロを助けてくださった主に結びついていたいと思います。イスラエルがエジプトを出て神さまの約束の地カナンに向かおうとした時に、さまざまな民族が行く手に立ちはだかりました。アマレクとの戦いで、モーセが祈りの手を挙げていた時、イスラエルが勝ちました。その手のようでありたいと願います(出エジプト17章)。