主の大きさに包まれて
ピリピ書 1:18−20
                                           詩篇  23:1−6
T キリスト者パウロの証しとして

 
これまで5回、ここにはパウロ自身の生き方が証しされていると感じました。イエスさまに召された使徒であるのに、冒頭は「使徒」となっておらず、かえって「イエスさまのしもべ」として、何よりもイエスさまに罪を赦され、救われた者としての生き方を語っています。それだからでしょうか。分派の問題も、コリント書では極めて冷静な伝道者、教師パウロの姿が浮かんでいるのに、この書簡には、生身の人間パウロがイエスさまによってどんなにすばらしい喜びの歩みへと踏み出すことが出来たか、ただそのことを語りたいと願っているように感じられます。そんなパウロの姿を、今朝のテキストから見ていきたいと願います。

 「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのあって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶでしょう」(18)と始まります。

 パウロは、ピリピ教会にはびこりつつある分派を咎めるよりも、それさえも喜びの源と言い切るのです。「喜び」が繰り返されているのは、これが、決して表面的、儀礼的なものではないからでしょう。喜びはクリスチャンの信仰のバロメーターであると聞いてきました。このパウロの喜びを見ますと、それが誇張ではないと伝わって来ます。そして、その喜びのソースがここに記されています。

 「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです」(19) ここでちょっと戸惑ってしまうのですが、彼の喜びが「ピリピ教会の人たちの祈りと御霊の助け」を頂いているからなのか、それが「パウロの救いとなる」ことなのか、どちらに比重が置かれているか判断がつきにくいのです。文脈からしますと、「私の救い」になるのだから喜んでいると聞こえてきます。しかしながら、これまで聞いてきたパウロのメッセージは、信仰とは、イエスさまを信じゆだねながら生きていく過程であるということでした。


U 主を第一として

 信仰とは実を結んだ結果なのか、それとも、イエスさまを救い主と信じ歩む私たち信仰者の生き方の過程なのか、ここでパウロは重要な問いかけをしているようです。先に、私たちのイエスさまを信じる信仰には、第一ステージの告白と、第二ステージの生き方があると聞いてきました。「パウロの救い」を「実を結んだ結果」と言いましたが、イエスさまを救い主と告白するところに私たちの救いがあると聞いてきましたから、それを第一ステージと受け止めて良いかと思います。そこで、私たちクリスチャンの中で、そのどちらに比重が置かれるかという重大問題が突きつけられたわけです。もしも、イエスさまを、十字架で私たちの罪を贖ってくださった救い主であると告白することに比重を置き、クリスチャンとはその告白をする者とするなら、パウロがこの書簡で強調する第二ステージは何の意味もないことになってしまいます。しかし、もし、第二ステージの中でどう生きたかを問いかけるとするなら、私たちの告白は一体何なのかと改めて問わなければなりません。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。私はその二つのものの間に板挟みとなっています」(21、23)とは、恐らく、そのことを念頭に置いてのことと思われます。20節までの今朝のテキストだけでははっきりしないでしょうが、それにしても、ここでこんなにも大切な問題提起をしたパウロの意識を聞いてみたいと思わされます。

 ところで、ここに言われる「パウロの救い」とは何を指しているのでしょう。「救い」ということばだけからは何のことか良く分かりませんが、20節に、「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現われされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです」とあるところから、いくらかのことを推し量ることが出来るようです。彼は、自分の救いを、「キリストのすばらしさが現わされることを求める切なる願いと望み」にかけているように聞こえて来ます。文脈上からもそうではないかと思わされます。パウロは徹底的に伝道者なんですね。自分のことではなく、「イエスさまのすばらしさが現わされていくように」と、その願い、望みをイエスさまのこと第一にしているのです。イエスさまに見出され、罪赦され、伝道者として召し出された、それがパウロの全生涯であり、すべてだったのではないでしょうか。


V 主の大きさに包まれて

 パウロは、ここ何十年かをイエスさまがすべてという歩みをしてきました。そのイエスさまのすばらしさが明らかにされるのです。たとえ異なった思いからだったとしても、彼らの宣教で、イエスさまが間違って伝えられているわけではありません。きちんと、イエスさまのことが正しく伝えられているのです。動機がどうであれ、イエスさまの福音が伝えられていることをパウロは喜んでいるのです。しかし、だからと言って、間違った動機から宣べ伝えている人たちの間違いをそのまま見過ごしていいということではありません。それはやはり責められるべきことであって、だからパウロはやんわりと、「一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ……」(2:2)とたしなめているのです。しかし、それは別にして、まず、パウロは喜びを伝えたかったのです。それほどの大きな喜びがあると、明らかにしたかったのでしょう。そのパウロの喜びを共有することが出来るなら、きっと、党派心から福音宣教をしようとしている人たちの間違いを訂正することが出来る、パウロのそんな思いが伝わってきます。

 彼らは喜びを共有することが出来る筈だとパウロは期待していました。なぜなら、そこに「彼らの祈り」、「御霊の助け」があるからです。パウロの信仰には、聖霊なる神さまがいつも彼を助けてくださったと、その信頼に裏打ちされていました。そして、彼らもそのお方が助けてくださるに違いない、その期待を彼は「彼らの祈り」に見ていたと思われます。恐らく、問題の渦中にありながら、彼らはパウロのために祈ってい、そのことをエパフロデトから聞いていました。彼らの祈りとパウロの祈り、それが互いの主に対する信仰を根本的なところで支えてきたと言っていいでしょう。この書簡の一つの中心主題、クリスチャンは祈る者だと聞こえて来ます。

 ここから聞いていきたいパウロのもう一つの証しに、「キリストのすばらしさ」という表現があります。これは新共同訳や口語訳では「あがめられる」となっていますが、もともとの意味は「大きさが明らかにされる」ということであり、イエスさまの大きさが自分の信仰経験を通して実感された表現と言うことが出来るようです。ここに彼の信仰告白が感じられるのです。イエスさまを信じる信仰を、第一ステージ、第二ステージとあたかも二段階に区別されているように聞いてきましたが、それはあくまでも便宜的なもので、決して区別されるものではないでしょう。パウロの信仰には、イエスさまを救い主と告白することが、私たちの日常の歩みの中で祈りや信頼となって溶け込んでいるとの意識があるのでしょう。ですから、罪赦されたとする、十字架の主への告白を内に含んでクリスチャンの歩みが確立していくのです。それが第二ステージなのでしょう。パウロは、伝道者である前に、クリスチャンとして歩んで来たそんな生き方をここで証していると感じるのです。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」とある詩篇23篇にも、生活と一体化した信仰が生き生きと歌われています。倣いたいものですね。