愛の心をもって
ピリピ書 1:12−17
詩篇 119:105
                                       
T 神さまが召し出して
 今朝は12−17節からですが、祈りを終え、パウロはいよいよこの手紙を書き送った目的とも言うべき、ピリピ教会の問題の中心点・分派のことを明らかにしようとしています。分派は福音宣教を巡ってのものでした。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います」(12)とパウロは、喜びとも感じられる思いを伝えることから始めます。「私の身に起こったこと」とは「投獄」(13)ですが、その詳しい事情をピリピ教会の人たちは知っていただろうとの印象を受けます。

 パウロの投獄をきっかけに分派が生まれました。それが何を意味するかと言いますと、投獄を非常に心配している人たちと、反対に、「ざまあみろ」と受け止めた人たちに分かれたということで、「パウロ何者ぞ」という空気があったことを指しているのでしょう。それはきっと、パウロに会ったことのない人たちの間に、「伝道者だからといって特別ということはない。たとえそれが私たちの教会の原点と深く関わっているパウロといえども」という意識があったのではと想像します。伝道ということでは、自分たちだってこんなに熱心に行なっているではないか、との自負があったのでしょう。ところが、その熱心を認めない人たちがいて、分派という争いの火種になっていたのです。しかし、福音宣教は決して「自分たちが」という意識から出るものではないですね。族長ヤベツの祈りにこうあります。「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように』そこで神は彼の願いをかなえられた」(T歴代誌4:10) 福音宣教には人間が用いられますが、それは神さまが召し出し、神さまのお働きに参加させてくださるということであって、自分たち分派の勢力拡大に結びつけるなどとんでもないことです。しかしパウロは、百歩も二百歩も譲歩し、「キリストが宣べ伝えられるのだから喜んでいる」(18)と言うのです。


U ローマの状況から

 パウロは自分の投獄が、ピリピ教会だけの「福音の前進」につながるのではないことを明らかにします。「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり」(13) 親衛隊とは、パウロを監視しているローマ兵たちのことでしょう。新共同訳は「兵営」となっています。ローマ市内に軍団は配属されておらず、皇帝直属の近衛兵だけがローマ市の守備に当たっていましたから、親衛隊というのはエリートと言われる近衛兵だったと思うのですが、その人たちの中からもイエスさまを信じる人たちが誕生していたのです。ローマ市民の感覚からすれば、それは「とんでもないこと」でした。「そのほかのすべての人にも」とは、パウロ監禁のニュースが、ユダヤ人にも、身近なローマの市民たちにも、そして、いろいろな地方からローマにやって来た外国人も多くいたでしょうが、その人たちにも広く伝えられて、罪人としてではなく、イエスさまの福音の旗手としてのパウロの名が知れ渡っていたことを指したものと思われます。それがどのような人たちであったか漠然としていますので、一層、クリスチャンになったローマの軍人たちのことが浮かび上がっているような気がします。

 パウロはピリピ教会だけのパウロではなく、世界中のイエスさまを信じる人たちから慕われ、尊敬されていたのでしょう。ここで、パウロはあえてそのことを明らかにしようとしています。それは、パウロの人物宣伝などではなく、「自分は福音宣教のために召された者ではあるが、こんな不自由な中でも福音を広めるために用いられている。それは、主のお働きによるのだ」と、ただそのことを明らかにしたかったのでしょう。それは神さまから出たものでしたから、パウロの投獄をきっかけに多くの人たちがイエスさまを信じる決心をし、それが励ましとなって、ローマ在住のクリスチャンたちを福音宣教へと駆り立てていったのでしょう。「また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました」(14)とあるのは、そんなパウロの周辺にいる人たちの変化を語っているのでしょうが、パウロは、ここでピリピ教会の人たちのことにも触れようとしているようです。「兄弟たちの大多数」というのが、微妙なニューアンスでピリピ教会の人たちを指しているように聞こえてくるではありませんか。


V 愛の心をもって

 「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます」(15)と、分派の存在を明らかにしていますが、まだ、これがピリピ教会の問題であるとはっきり言っているわけではありません。恐らく、そのような問題は各地の教会に持ち上がっていたのでしょう。コリントの教会にも、「私はパウロにつく」、「私はアポロに」、「私はケパに」、「私はキリストに」(Tコリント1:17)と同様の分派問題が深刻になっている様子が窺えます。パウロはその辺りのことをほのめかしながら、ピリピ教会の人たちに、自覚して欲しいと願ったのでしょう。キリスト教会としては草創期だったこの時代に、イエスさまを信じることに熱心なあまり、現代の一部の教会にもしばしば見られることですが、信仰の正しい知識を育てる訓練もなしに「伝道」だけに突っ走ってしまう傾向がありました。事実、アポロは非常に熱心な伝道者でしたが、「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」(使徒18:24−25)と指摘され、やがて、パウロの教えを受けたプリスキラとアクラの伝道者夫婦から、「神の道をもっと正確に説明」(同18:26)されました。みことばにしっかりと裏打ちされた信仰が何よりも大切であると、パウロの願いが浮かんできます。ピリピ教会の未成熟な部分が、どのように修正され、正常なキリスト信仰に育てられていこうとするか、パウロはこの書簡に託しているように感じられます。現代の私たちも聞かなくてはならないことでしょう。

 パウロが分派の中心点として上げている論点に注目してみましょう。一方に、「ねたみや争いをもって」、「党派心をもって」、「投獄されている私をさらに苦しめるつもり」と言われ、他方に大多数の人たちが、「善意をもって」、「愛をもって」、「(パウロが)福音を弁証するために立てられていることを認め」、「純真な動機から」と言われます。「ねたみや争いや党派心」に対して「愛や善意や純真」が上げられていますが、善意とは強い意志をもって決断すること、純真とは混じりっ気のないこと。いづれも信仰の行為と伝わってきます。ねたみも争いも党派心も、人間の内部に巣くう罪の本能に基づくものでしょう。しかし、愛や善意や純真はイエスさまの十字架に罪を赦された者の中に育てられていくものだと、パウロはこれら二つのものを、しっかり区別出来る信仰者に育って欲しいと願っているのです。「あなたがたが真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」(1:10)と願ったものの中身が、次第に明らかになっていくようです。果たして、私たちの信仰はどれほどの識別力を備えているでしょうか。イエスさまを信じる信仰とは、決して思惟の中だけのことではなく、私たちの全生活をかけてのものであると受け止めなければなりません。「汝のみことばは我が足のともしび、我が道のひかり」(119:105)と詩篇の記者が告白しました。そのみことばを十字架からと聞き、そこに土台を築いた生涯を歩んでいきたいですね。