神さまを第一と
ピリピ書  1:7−11
伝道者の書  12:13
T 信仰のアンテナに

 先週は、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを堅く信じているのです」(6)と、信仰の第二ステージに主のお働きがあるとのパウロの確信と宣言を聞きました。第一ステージの「告白」と、第二ステージの「信仰者の生き方」、どちらもパウロ神学の根幹をなすものですが、今朝は7−11節から、その宣言の理由を明らかにします。

 「私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです」(7) 第一の理由は、パウロ自身の中にありました。「福音を弁明しているとき」と「投獄」とは、切り離すことができません。Uコリント11章にあるように、パウロはその伝道生涯に何度も投獄され、ピリピ教会の人たちもそれを聞いて心配していたのでしょう。彼らはその時も贈り物を届けました。今またローマの獄中にまで贈り物を届け、パウロを思う心は長く離れていても決して途切れることがなかったのです。誰かと正面から向き合おうとするなら、誠実でなければなりません。パウロは、ピリピ教会の人たちの中に、神さまが良いお働きを始められていると感じて嬉しく、自分もまた誠実をもって応えたかったのでしょう。どちらにも信仰者の姿勢を感じます。分派という問題があって、少なからず悲しんでいたとしても、彼らの信仰が失われたわけではない。主が「あなたがたの中に良い働きを始めておられる」とパウロは嬉しくてたまらないのです。それは、パウロの信仰者としてのアンテナに、彼らの信仰が反応していたからでしょう。

 第二の理由に、「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です」(8)と、神さまご自身を挙げます。愛の心も慕っていることも、パウロだけではなく、彼らの信仰そのものと聞こえるではありませんか。


U 愛ある者に

 しかし、だからと言って、彼らに問題がないわけではありません。彼らの信仰の第二ステージへのパウロの祈りが始まります。新共同訳から紹介致しましょう。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9−11) パウロはピリピ教会の人たちが、@本当に重要なことを見分けることが出来るように A神さまの栄光と誉れをたたえることができるようにと、2つの点で成長するよう祈ります。その点が欠けていたということでしょうか。

 最初のことから見ていきましょう。「本当に重要なことを見分けられるように」とは、何を指しているのか良くは分かりませんが、パウロの目には、相争う者たちに、失われてはいない福音に根ざした部分があると見えていたのでしょう。そこをよくよく見つめて欲しいと言っているのです。新改訳の注に、「異なっているものを区別する」とありますが、それでは分派の互いを異端と見る憎しみが強調されてしまいます。ですから、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり」と、イエスさまに根ざした愛がこれを解く鍵のように加えられたと感じるのです。知る力や見抜く力はギリシャ人的な知性を重んじる言い方ですが、それも神さまから頂くものであって、決して感情だけに左右される人間の愚かしい知恵ではありません。その辿り着くところが愛であるとはそのためでしょう。人と人が真正面から向かい合う時に、誠実が必要と言いましたが、ピリピ教会の人たちが誠実を込めてパウロの窮乏を助け、パウロもまた誠実を尽くして彼らを見つめたように、争いの渦中にある人たちも誠実をもって向き合うようにと聞こえてきます。誠実とは、忠実とか信仰と訳し得ることばです。愛と置き換えてもいいでしょう。その愛だけが、他の人を自分と同じように、イエスさまのものであると認めていくのです。他を認めるなら、争いは消滅していくでしょう。


V 神さまを第一と

 パウロの祈りの第一は、他の人たちの中にも大切にしなければならないものがあり、神さまから頂く愛をもってそれを識別していくことが出来るようにというものでした。中心は<神さまが与えてくださる>ということですが、パウロはまだそれをオブラートに包んでいるようです。彼らの人間性に訴えているのですね。彼らがその部分で物事を考えようとしているので、ワンクッション置いたのでしょう。しかしパウロは、そのワンクッションを土台に、本当に見据えていかなければならない中心は、「神さまの栄光と誉れとをたたえることができるように」、神さまだと言い切ります。その神さまを第一とするためにどのようにしたらいいのか? それがパウロの第二の祈りです。

 「清い者となり」とは、祭儀を執り行う祭司たちが汚れのない状態で臨むことを意味していましたから、倫理的な「正しさ」よりも、「神さまの前に清いことを志していきなさい」と勧めているのでしょう。「とがめられるところのない」も同じですが、こちらは、他の人から後ろ指を指されることがないようにという意味合いをより多く含んでおり、クリスチャンたる者、目線を神さまに定めて歩んでいくのですから、人の前でも志の高い生き方をしていくのだと教えられます。清いこと、とがめられることがないことを、「キリストの日に備えて」願っていく、これがクリスチャンの生き方、信仰の第二ステージそのものであると教えられます。キリストの日にとは、イエスさまにお会いする時のことを言っているのでしょう。そのイエスさまが十字架にかかって私たちの罪のために死んでくださり、罪にまみれて泥だらけになっていた私たちは、そこから救い出されて志を高く持つことが出来るようになったのです。「イエス・キリストによって与えられる義の実」とはそのことを指していると聞こえてきます。

 「キリストの日に」、完成された者としてイエスさまの前に出ていくわけではありませんが、不十分な者でも、「それでいいよ」と受け入れてくださるのでしょう。そう期待します。ただ志していかなくてはなりません。信仰の生き方は結果ではなく、過程だと思います。そう志したから、主によって与えられる義の実をあふれるほどに受けることができるのでしょう。もっとも、その辺りのことになりますと、自分の生き方に照らして、「義の実」をあふれるほどとははなはだおぼつかないのですが…… パウロの願いはこうです。清い生き方も、とがめられることのない生き方も、義の実を頂くことも、神さまから出てくるのです。神さまを第一とすることから、そのような生き方が生まれて来るのです。しかし、生まれて来るものが一番ではなく、神さまを第一とする生き方をこそ覚えて欲しいとパウロは願っているのです。どんなにおぼつかない生き方であっても、「神さまの栄光と誉れとをたたえる」生き方が求められていると聞いていきたいのです。「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道12:13)と教えた先輩の信仰に倣いたいですね。