前のものに向かって
       ピリピ書 1:3−8
詩篇  31:14−16
T 感謝と喜びの交わりに
 あまり細切れにはしたくないのですが、たくさんのことを学びたいと思いますので、3節から11節を二回に分けて、今回は8節まで、来週11節までを見ていくことにします。それほど内容が濃いとお考えください。1−2節も二回に分けて見ましたが、イエスさまを救い主と信じる信仰の告白が一致するところに、争いからの回復が生まれ、愛の交わりが育っていくと聞いてきました。いやむしろ、愛をもって互いに仕え合うことが、本物の信仰の一致につながっていくのでしょう。そしてそれは、神さまの恵みによるのだとはっきりさせておかなくてはなりません。

 「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」(3−5)と、今朝のテキストは彼の感謝から始まります。感謝(ユーカリスト)の中に、恵み(カリス)が含まれていることを思い出してください。きっと、ピリピ教会の人たちも神さまの恵みの中にいると、パウロは自分を招き出してくださったお方の真実に期待し続けていたのだろうと感じます。「あなたがたのことを思うごとに感謝し」とは、決して口先だけのものではなかった筈です。最初の日とあるのは、使徒16章での出会いを言っているのでしょう。その時、ピリピ教会がスタートしました。騒動に巻き込まれて投獄され、きっと心細かったパウロの慰めになったのは、牢獄の扉を開いてくださった神さまと、主を信じてすぐにバプテスマを受けた看守の一家でした。以来、彼らはパウロを忘れず、その窮乏を何度も助けてきたのです。そんな誠実な彼らのことを、折りに触れて思い出し祈っていたパウロでした。そして、エパフロデトが教会からの贈り物を携えてローマにやって来たとき、教会内に分派の争いがあると聞いて、喜びと同時に噂が本当だったと知って悲しかっただろうと思います。しかし、感謝も喜びも、パウロがずっと彼らに持ち続けて来たいつわりない思いだったのです。


U 未完成の者ですが

 
ただ、パウロには心配がありました。「あなたがたが、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」とあります。新共同訳は「福音にあずかっている」と単純に訳していますが、くどいのを承知で言いますと、「福音にコイノニアしている」と言ったらいいでしょう。新改訳はそのコイノニアをわざわざ「広めることにあずかる」と訳しているのです。それは普通「交わり」と訳されるもので、「福音を信じる交わりに入れられている」と新共同訳のように単純に考えても間違いではないのですが、新改訳の訳者は、彼らピリピ教会の人たちが福音に招かれていると自負するとき、それは、自分たちが懸命にその福音の交わりを広げたのだと理解したからではないかと思われます。それも、伝道者パウロを支えることで間接的に福音を広めたというよりも、自分たち自身が伝道に一生懸命だったと言っているのでしょう。彼らの分派は、伝道というところでのことだったのです。彼らのコイノニアは分派の交わりを指していたのでしょうか。

 彼らの伝道熱心そのものは誉められていいことでした。しかし、ここに若干のパウロの悲しみが感じられます。冒頭の3−11節にあるパウロの祈りには、「彼らがもっともっと伝道熱心になって」などという願いは全くありません。そればかりか、この書簡のあちこちに見られる彼らの伝道熱心にパウロは、むしろ、はらはらしている様子さえ感じられるのです。この祈りの中でパウロは、「愛が豊かになるように」、「真にすぐれたものを見分けることができるように」、「純真で非難されるところがないように」、「義の実に満たされている者となるように」と願っています。パウロが本当に願っていたことは、彼らの信仰の中身であり、その信仰が成長して欲しいということでした。それは次週に取り上げますが、「人、全世界をもうくとも、おのがいのちを損せば、何の益あらんや」(マタイ16:26)というイエスさまのことばが思い出されます。彼らピリピ教会の人たちは、伝道に熱心なあまり、大切なものを失いかけるところだったと言えるのではないでしょうか。

 そんな彼らに、パウロは慎重にことばを選びながら励ましを語りますが、同時にそれは問題点の指摘でもありました。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを堅く信じているのです」(6) ここからパウロの「イエスさまを信じるあなたがたの信仰は、まだまだ未完成だ」という声が聞こえてきます。それは批判ではなく、パウロ自身も言っていることでした。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ、捕らえようとして、追求しているのです」(ピリピ3:12)


V 前のものに向かって

 
この未完成ということを、現代の私たちもはっきりさせておかなければならないでしょう。未完成ということを、信仰が足りないことと勘違いすることが多いのです。はっきりさせておきたいのですが、イエスさまを信じる信仰は、私たちの罪のためにイエスさまが十字架におかかりになって死んでくださったことを認め、受け入れるかどうかにかかっています。ただそれだけなんですね。イエスさまを信じるか信じないかという二つだけなのです。弱い信仰とか足りない信仰などということはあり得ません。信じるなら、その人は、それだけで十分に神さまの御国に名を連ねる者にされるのですから。

 ここでパウロが問題にする未完成は、「愛が豊かになるように」、「真にすぐれたものを見分けることができる」といった信仰の次のステップのことなのです。その内容については次週を待たなければなりませんが、パウロはそのことを「あなたがたのうちに良い働きを始められた」と表現しているのです。神さまはそのお働きをキリスト・イエスの日までに私たちの中に完成してくださるのだと、これはパウロの確信であり、宣言でもありました。ここにも「キリスト・イエス」という彼独特の信仰告白があります。良い働きは、その信仰告白から始まるのです。信仰の第一ステージで最も大切なことは、まず、「イエスさまは私の救い主である」という告白です。そして、そこから信仰者としての生き方が始まる、それが信仰の第二ステージだと理解して頂きたいのです。

 実は、私自身もそうなのですが、神さまのお働きを自分のうちに認めることができなくて、何度となく自分の中には良いものなど一つもないとがっかりしてしまいます。そのくせ、イエスさまが私の罪のために十字架に死んでくださったと信じて疑わないんですね。でも、きっとこんな私の中にも、神さまは良いお働きを始めておられるし、頑固に合わせてかたつむりのようになっているかも知れませんが、少しづつ良いものを膨らませてくださっていると思うのです。パウロが自分について言うことばを聞きましょう。「そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに得たなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」(3:12−14) このパウロの信仰の生き方に倣いたいではありませんか。少々歩みが遅いからと言って、「おまえはクリスチャンではない」と宣言されることはありません。歩み方は各人各様なのですから。きっと、イエスさまにお会いするときまでに一人前にしてくださるのでしょう。その約束に期待しつつ、「私は告白します。あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります」(詩篇31:16)と賛美した大先輩のように、「私たちのすべての時」を握っていらっしゃるお方にゆだねていきたいですね。