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平和の主がともに

                                ピリピ書 4:8−9
                                イザヤ書 9:1−7

T 心に留めなさい

 「最後に兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」(8) パウロの手紙が終わりに近づいて来ました。彼の目はピリピ教会のすべての兄弟姉妹たちに向けられます。「心を留めなさい」と言われる8つの事柄(或る人たちは7つと数える)を通して、パウロがここで語ろうとしているメッセージを聞いていきましょう。今日の私たちに必要な勧めでもあろうかと思われます。

 「すべての……なこと」という形式で8つの項目が上げられますが、訳にいくらかのばらつきがありますので、……の部分だけですが、いくつか紹介します。「真実、尊ぶべき、正しい、純真な、愛すべき、ほまれある、徳、称賛」(口語訳)、「真実、気高い、正しい、清い、愛すべき、名誉、徳、称賛」(新共同訳)、「真実、尊敬すべき、正しい、純真な、愛情豊かな、名声ある、徳、誉れ」(キリスト新聞社訳) あまり細かなことを気にしますとわけが分からなくなりますので、翻訳者たちが一番苦労したと思われる6番目のことばを取り上げてみましょう。新改訳「評判の良いこと」、口語訳「ほまれあること」、新共同訳「名誉あること」、キリスト新聞社訳「名声あること」ですが、他に永井訳が「宜しき噂あること」となっています。これらをじっと眺めていました。すると、違っているようでも、みんな一つの方向を向いていることに気がついたんですね。それは、日本でいうところの「世間の評判」ではないかと思ったのです。これがなぜ6番目なのかは疑問ですが、もしかしたらパウロは、「真実」から「称賛」までを、信仰者の生き方の基準を神さまから人間社会に少しづつ移行させながら、より具体的に教えたいと思ったのではないかと感じられました。そう思ってみますと、真実や正しいことや愛などは神さまを基準にしなければ見えて来ませんが、「評判の良いこと」や「徳」になりますと、世間の人たちの判断が重要となってきます。特に最後の「称賛」は、明らかに世間の人たちのクリスチャンたちをみる目を言っていると聞いて間違いないでしょう。クリスチャンの生き方に、人の目が関わっているとは意外ですが、考えてみなければなりません。


U 神さまと人とに向かって

 ユウオデヤとスントケへの勧めを思い出してください。それは、「寛容な心」、「感謝」、「祈り」というイエスさまが育ててくれた信仰の所産を大切にしなさいということでした。イエスさまがすぐ近くにいて守り導いてくださるから、そのような大切なものを大切にすることが出来るのです。「あなたたちはそんなにすぐれた信仰に立たされて来たではないか」と、パウロの心からの励ましを聞きました。

 しかし、そのことと、「人間の目に映る評価を大切にしなさい」とどうつながっているのか、慎重に考えてみる必要がありそうです。「すぐ近くに」、それはイエスさまだけではない。たくさんの人たちもではないでしょうか。その人たちがクリスチャンとしての私たちを意外なほどじっと見つめている。きっと、先輩クリスチャンたちが築き上げてきた信仰者の生き方を、世の人たちは尊敬しながらレベルの高い生き方の模範としているのです。迫害は、そんな彼らの奇妙な反動なのかも知れません。パウロは、激しい迫害をくぐり抜けながら、世の人たちがイエスさまを信じる者たちをどう見ているかを肌で味わって来ました。しばしば私たちは、信仰者の模範を牧師とかすぐれた先輩たちに求めがちですが、長いクリスチャン人生を歩んで来た人たちは、案外と妙な価値体系を作り上げている場合が多いようです。妙にクリスチャン臭いんですね。それが欧米文化であったり、牧師個人の価値観であったりと、必ずしも純粋にイエスさまの教えではないものに固執している部分があるのですが、それでも牧師や教会役員という信仰の指導者の言うことだからと鵜呑みにしてしまうのです。しかし、世の人たちの目は、案外と素直に良いものだけを見つめているところがあるんですね。もちろん、そればかりではありませんから、しっかり検討してみる必要はありますが、世の人たちの目は、信仰については赤ちゃんと同じで、意外に的を射たところがあります。それがこのような言い方になったのでしょう。

 きっと、この手紙に繰り返されて来た「信仰の第二ステージ」がここにも語られているのでしょう。それは信仰者の生き方で、その神さまに向いている方向が真実や気高さや正しさや清さや愛であり、「この世」という舞台での生き方に焦点を合わせているところが、評判の良いことであり、徳とか世の称賛ではないかと思われます。そのどちらにも心を留めていかなければなりません。クリスチャンはその両方に向かって生きる責任があるのですから。


V 平和の主がともに

 そうしますと、ユウオデヤとスントケに勧められた「寛容な心」や「感謝」や「祈り」という純粋に神さまに向かう生き方が、私たちへの教えであると聞かなければなりませんし、また、「人間の目を感じながら歩みなさい」という教えも私たちに向けられていると聞こえてきます。きっと、ユウオデヤ・スントケと他の兄弟姉妹という区別を、パウロは全く意識していないのかも知れません。現代の私たちは、自分の意見を強く主張して一致出来ないでいるユウオデヤやスントケになる可能性もあり、どの牧師につくか、どの教会が良いとか悪いとか、右往左往しがちな一把ひとからげの信仰者になる可能性があるのです。確かにピリピ教会にはピリピ教会なりの問題がありましたが、パウロの目はピリピ教会だけではなく、当時の世界中の教会と、以後建てられるであろう教会、現代の私たちの時代にまで、イエスさまの教会全体を見ていたのかと思われます。いつの時代にもユウオデヤやスントケが現われて来ましたし、何を見つめて生きているのかわけの分からない信仰者も存在してきました。自分一個の中にさえそういった両人格が共存していると感じます。私自身、そんな空回りの信仰みたいなところに落ち込むことが多いのですが、中身の伴わない机上の空論を振り回していますと、そんな信仰の空洞化が起きて来るようです。気をつけなければいけないことです。

 パウロがこういった勧めに力を込めているのは、彼が当代一流の知識人として、ともすれば机上の空論に流れることを気をつけなければと、彼自身の自戒を込めているのかも知れません。神さまに目を向けながら「真実」や「愛」を語り、人間に目を向けながら「評判」や「称賛」を語っているのですが、如何にも実践的・具体的ではないですか。これが彼の信仰の中身だったのでしょうね。きっと彼の目には、ピリピ教会の分裂騒動が、そのような中身のない空論に見えたのでしょう。そんなパウロからの最後の勧めです。「あなたがたが私から学び、受け、聞き、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」(9) これは、パウロを通してイエスさまを見つめて欲しいと言う、これまでに何度も繰り返された(3:17など)メッセージです。信仰実践の勧めとともに、如何にもパウロらしいではありませんか。

 「平和の神がともにいてくださいます」 思い出して頂きたいのですが、「神ともにいます・インマヌエル」とは、預言者イザヤのメッセージでした。自分たちは「神さまの選民で正しい」とユダヤ人たちが自己主張をすることで平和が失われていたその時代が、今の私たちの時代に重なって来ます。平和の神とはもちろん十字架の主イエスさまご自身です。みんなが一緒にそのイエスさまを見つめる、そこに平和が生まれてくるのではないでしょうか。信仰の実践がそこに結実していくのです。世界平和も、教会(一個教会ばかりではなく、世界中の全教会も同様に)の平和も、或いは、私という個人の中の平和も同じでしょう。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)と言われたイエスさまのことばを心の碑に記しておきたいものです。