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イエスさまを見つめて

ピリピ書 4:4−7
  イザヤ書 54:7−10
T 喜びの信仰を

 先週、「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。主にあって一致してください」(2)とある分裂騒動の陰に誰かがいた可能性に触れました。パウロにしては珍しく歯切れの悪い言い方で、「真の協力者」がそれを暗示しているのではと思ったのですが、パウロがそれ以上を語りませんので、信仰への人間的な関与があってはならないと聞くに留めておきましょう。彼の関心は、信仰の戦いを戦っている彼女たちに向けられています。今朝は4−7節からです。

 「いつも主にあって喜んでいなさい。もう一度言います。喜びなさい」(4) パウロは、彼女たちから笑顔が消えていることを悲しく、寂しく感じながら、励ましのエールを送っているのです。私たちも経験していることですが、問題が鬱積し、悲しい出来事に直面しているとき、そのことばかりに心が囚われて、笑顔を忘れてしまうことがあります。すると、直面している問題がますます大きく自分にのしかかって、いよいよ笑顔から遠ざかるという悪循環に陥っていきます。そんなことは百も承知のパウロです。Uコリント11章に、「牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から39のむちを受けたことが5度……」(23−27)と、その苦労の一端を伝えていますが、そんな彼が、投獄されている獄中で賛美歌を歌って……、聞いていた囚人たちは地震で牢獄の扉が開いたのに逃げようともしなかったのです。それを見ていた看守がイエスさまを信じてピリピ教会が誕生したという経緯があります(使徒16章)。彼女たちはそのことを何回も聞いていたでしょう。だからパウロは、このように彼女たちに喜びの勧めをすることができたのです。イエスさまを信じる信仰が喜びの中にあることは、すでに3:1で触れましたが、これは福音のエッセンスです。「喜びなさい」とは、イエスさまを信じる信仰の原点に立ち戻ることですね。私たちの信仰をそのところで探ってみる必要がありそうです。


U 私たちのすぐ近くに

 彼女たちもその喜びの信仰に生きていた筈です。しかし、イエスさまを信じる信仰の歩みは毎日のことですから、嬉しい、楽しいということばかりではない、むしろ、周りの人たちと摩擦が起きることのほうがずっと多いでしょう。その上に、自分自身との戦いもあります。彼女たちのように、教会の指導者として一つの集会を守っていますと、重くのしかかって来る誰彼の問題ばかりに気を取られて、自分自身の信仰が後回しになってしまう。私にもたくさん経験のあることです。魂がかさかさに乾いていて、喜びのかけらもない時に、それでも、毎週の聖日礼拝や祈祷会が巡って来て、いやでも、人前に立たなければならない。よそ行き用のスマイルなんてことはしょっちゅうでした。でも、そんな付け焼き刃みたいなメッキはすぐに剥がれてしまいます。何よりも、自分の魂が乾いていることに耐えられないのです。宗教改革者のマルティン・ルターが「悪魔よ。立ち去れ!」と叫んで投げつけたというインクのしみが、彼の愛用の机の前にあるそうですが、伝道者は、そんな戦いを毎日挑まれているというのが、私の実感です。背後で祈ってくださる方たちの祈りがなければ、そして、主の憐れみがなければ、敗北の連続なんです。それなのに、不思議と主の恵みの中に生かされています。十字架のイエスさまがそんな私に出会ってくださったからです。悲しんでいる時にも、奥深いところで平安があります。悩んでいても、その悩みを主が一緒に担っていてくださっているという安心感があるのです。喜びの信仰とはそのことを言うのではないでしょうか。

 彼女たちは、その喜びの原点を思い出しさえすれば良かったのです。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(5−6)とパウロの勧めは、何もないところに喜びを、感謝をというのではありません。「主は近い」は、終末論的に「主はすぐ近くまで来ておられる」という可能性もありますが、新共同訳のように「主はすぐ近くにおられます」と訳したほうがより現実的ではないでしょうか。そしてパウロは今、信仰者の現実を取り上げ、彼女たちに「喜びなさい」と励ましているのです。イエスさまが私たちのすぐ近くにおられ、私たちを見守ってくださるのだから、私たちの生き方に励みがあるのではないでしょうか。喜びもそこから生まれてきます。彼女たちの寛容な心も、感謝も祈りも願いも、イエスさまに育てられた信仰の所産だったと考えていいでしょう。


V イエスさまを見つめて

 「寛容な心」、「感謝」、「祈り」など、現代人にとって、非現実的なおとぎの世界に聞こえるでしょうが、もし私たちがイエスさまに育てられているなら、私たちの中にはそんな価値観がしっかり根付いている筈です。その生き方を誇りにしようではありませんか。それは、そのような在り方を前面に押し出して生きるということですが、決して時代遅れではありません。かえって、混迷するこの時代をリードする生き方につながっていくでしょう。阪神大震災の時に、そんな心が被災地に溢れていたことを思い出します。そして、その価値観こそ一番大切なものなのだと、誰もが思ったものでした。それも、一時的なことでしたが……。

 パウロは、ピリピ教会の分裂・争いという問題を離れて、イエスさまを信じる信仰の根本的な在り方を言っているようです。寛容も感謝も祈りも、本来の私たち自身の中にあるものではなく、イエスさまに育てられた者たちが身につけているものと聞こえてきます。「もし」と言いましたが、イエスさまが私たちのすぐ近くにいらしゃることは間違いありません。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と、これはイエスさまの約束です。ただ、私たちがイエスさまとともに歩んでいるかどうかが問われているのです。この礼拝室に私の大好きなホルマン・ハントの「扉の前にたたずむイエスさま」の絵がかかっていますが、ハントは故意に扉に取っ手をつけていません。扉は内側からしか開けられないのです。私たちが扉を開いてイエスさまを心の内にお迎えするかどうかが問われています。それが信仰の中心なのでしょう。イエスさまが、私の前にたたずんでいらっしゃると聞くかどうかにかかっているのです。

 「主は近い」も、「神に知っていただきなさい」も、ユウオデヤとスントケが教会という人間同士の葛藤の場から目を移して、イエスさまを見つめるなら、自分たちの中に植えられた喜び、感謝、寛容な心を取り戻すことが出来るということです。救い主イエスさまが私たちの目の前にいらっしゃることを、ユウオデヤやスントケだけではなく、現代の私たちも見つめ直さなければなりません。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(7) 平安が失われていたのは彼女たちだけではありません。ピリピ教会全体も、そして、時代を超えて、イエスさまを見失った者たちすべてが平安(新共同訳では平和)のない者たちであると言われています。現代はその最たる時代ではないでしょうか。またもや戦争のきな臭い匂いが漂っていて、そんな時代に、イエスさまを信じる信仰を、寛容な心や感謝や祈りによって知らせていこうではないかと、パウロの勧めが聞こえてくるようです。私たちの信仰を捧げるべきお方、イエスさまこそ平和の土台なのですから。「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない』と、あなたをあわれむ主は仰せられる」(イザヤ54:10)