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麗しい愛の交わりに

   ピリピ書 4:1−3
詩篇   133:1−3
T 祈り支えてくれた方たち

 今、ピリピ書がとても面白いのです。パウロが見つめている信仰の世界にわくわくしています。パウロと同じところを見、生きていきたいと願わされます。「私たちの国籍は天にある。そこから主イエスさまが救い主としておいでになって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのを、待ち望んでいます」(3:20−21)と聞きますと、心が躍るようではありませんか。

 残り少なくなってきましたが、現代の私たちも聞かなければなりません。できるだけ焦点を私たちに合わせながら見ていきたいと思いますが、今朝は4:1−3と二つの段落から、まず第一の段落からです。「そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち」(1) 勧めの中心は「このように主にあってしっかりと立ってください」ですが、その人たちに呼び掛けているところがすごいですね。「私の愛し慕う兄弟たち」、「私の喜び、冠よ」、「私の愛する人たち」と繰り返されています。これまでにも何度もピリピ教会からの献げものを受けてきたパウロでした。彼らの祈りが自分を支えてきたと感じていたのでしょう。これは私自身にも重なります。牧師には「信仰者として強い人」というイメージがあるかと思いますが、決してそうではありません。むしろ、牧師にでもしておかなければどうしようもないから召し出されたと思うほど弱いところがあります。それが40年以上も続けて来られたのは、もちろん、主に召し出されたからですが、同時に、こんな者のために祈り、支えてくださる方たちが絶えなかったということなのです。パウロのこの言い方の中に、私自身のこのような思いが重なっています。祈り支えてくださる方たちがおられるのは、本当に心強いのです。特に、世界中を駆け回っていたパウロにとって、変わらず祈り、支え続けてくれるピリピ教会の人たちは、本当に嬉しい交わりだったのでしょう。


U 和解の主が

 「このように主にあってしっかりと立ってください」とあります。分裂騒ぎの中にあるピリピ教会のすべての人たちにこう勧めているのでしょうが、この心のこもる呼び掛けといっしょに、騒動を起こしている人たちへのパウロの優しさがにじみ出ているようです。二つ目の段落にユウオデヤとスントケ(4:2・女性名)と実名が上げられているのは、彼女たちがその対象だったからでしょう。

 彼女たちはピリピ教会の有力な指導者でした。自分の家を開放して、そこがそれぞれ家の教会としてピリピ教会の核になっていたのでしょう。女性同士ということもあって、互いに身近な存在だったと思うのですが、どうしたわけか仲違いしているようです。意見の相違があって、それぞれに荷担する人たちが集まり、分派が生まれていたのかも知れません。ともかく、彼女たちがピリピ教会の分派問題の一因であったことは間違いないようです。そんな彼女たちに、パウロは心を痛めつつ、「一致しなさい」と提言しています。パウロは彼女たちに厚い信頼を置き、親密な間柄だったのでしょう。だから、こんな率直な提言ができたのです。「主にあってしっかりと立ってください」、「主にあって一致してください」と、どちらの中心も「主にあって」とあります。「イエスさまを信じている者らしく」と言ったらいいでしょうか。3節に言われるように、彼女たちは「福音を広めることでパウロに協力して戦った」人たちでしたから、イエスさまのために自分の我を捨てる勇気を持っていた筈です。この勧めの結果がここに何も記されていないのは残念ですが、時間がかかっても、二人の仲は以前にも増して麗しいものに回復したことでしょう。それがクリスチャンの交わりでしょうね。意見の相違があって、時には激しい論争になっても、自分の間違いを見つけることが出来る。もちろん、何が間違いなのか、普段から聖書を学んで、見分けられる賢さを身につけておかなければなりませんが。そうすれば、こだわりを持ち越さずに和解することが出来るのです。イエスさまご自身が、その和解のために十字架にいのちを捨ててくださったのですから。十字架を見つめる者たちに、和解出来ない理由など、どこにも見つけることは出来ません。そうした、「主にあって」という、クリスチャンの生き方を覚えていきたいですね。


V 麗しい愛の交わりに

 ユウオデヤとスントケが、二人だけだったら、上のようなことは意外と簡単に解決出来たと思うのですが、人間社会は単純ではないようですね。その辺りのことが、パウロらしからぬ歯切れの悪さに含まれているようです。「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください」(3節)ここに「協力者」とありますが、これは微妙な言い方で、新改訳の注には「別訳で人名のスズゴス」とあるように、パウロの念頭には特定の人物がいたようですが、その名前がスズゴスかどうかははっきりしてはいません。スズゴスとは「同じくびきを担う」とか「協力者」という意味ですが、これが人名という例は他に見当たらないそうです。いづれにしろ、ここでは、その人の名が何故か隠されていると見て良いでしょう。想像でものを言うことが多くて気が引けますが、この「真の協力者」が彼女たちの間に立って、仲違いをあおり立てているように感じられてなりません。私たちも気をつけたいですね。アドヴァイスをする本人に悪意なんて気持ちは全くないのでしょうが、善意であったとしても、結果的にそんな役どころにはまっている場合が結構多いのです。恐らく、これを読んでいるピリピ教会の人たちは、誰も気がつかなかっただろうと思います。ですからパウロも、本人だけに分かる言い方をしたのではないでしょうか。当の本人も、心の耳を澄ませていなければ、この指摘を受けとめることは出来ないでしょう。信仰を介して、自分との戦いの最中にある二人の間に、たとえ善意のアドヴァイスであっても、割り込んではならないと聞こえてきます。

 そのように聞いてきますと、パウロがその「真の協力者」に願っている「彼女たちを助けてやってください」という意味が、実は<アドバイス>ではなく、「祈り」ではなかったかと思われてきます。実はここに、誰もが気がつく単純な勧めがあります。今、この二人の間に立つことがあってはならないと聞きましたが、実は、この二人の間に立ってくださるお方がおられるからです。それはイエスさまです。ですから、「主にあってしっかり立ってください」なのであり、「主にあって一致してください」なのです。信仰の一致はイエスさまのご介入によってのみ成り立ちます。「いのちの書に名の記されているクレメンスや、そのほかの私の同労者たち」といづれも殉教した人たちの名は、彼女たちに、そんな信仰の勇者たちとともに働いたことを思い出して欲しいと掲げたのでしょう。パウロですら歯切れが悪くなる人間模様に、唯一イエスさまだけが入り込んでくださるのです。そのイエスさまを介して、兄弟姉妹たちが「愛し慕う人たちよ」と呼び合うことができる幸いに生かされているのです。「見よ。兄弟たちが一つになってともに住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである」(詩篇133:1−)とあります。