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天国の市民権を
  ピリピ書 3:17−21
イザヤ書 66:18−23
T 福音のコンセンサスを

 「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」(17)と、まるで傲岸とも感じられるほど自分をアッピールするパウロですが、先週、12−16節から信仰の戦いを続ける彼の信仰告白とも言える部分を見てきましたので、決してそうではないとお分かり頂けると思います。

 パウロを手本にという人たちは各地の教会にたくさんいました。現代の知識人たちから「パウロ宗教」などと言われ、いかにもイエスさまの教えとは異なる福音を造り上げていったかのように受け止められるところがありますが、それはまた、キリスト教が新しい歩みを始めたばかりで、信じるべき内容にも、信仰者たちの生活にも確立していかなければならないことばかりだったことを意味しています。彼は、キリスト教が他に類を見ない十字架とよみがえりのイエスさまを中心とする福音であり、それは、一人一人の信仰の告白をもって受け止めるべきであることや、その告白に基づいた信仰者たちの歩みがいかにあるべきかといったことなど、何としてもその全容を確立しなければならないと感じていたのでしょう。信仰上の規則を作るだけならそれ程むつかしいことはない。しかし、イエスさまの福音に生きるということは、律法から自由にされることだと彼は意識していました。確立しようとしている福音のコンセンサスは、文字に表した規則などではなく、人間のことばによるものではありませんでした。神さまのことばを生きる。いわば、形のない真理なのです。パウロとともにお手本になったり、その決意をいっしょに担ってくれる筈の最初の弟子たちはほとんど殉教しています。その殉教に彼自身が一枚噛んでいたことも忘れることができなかったのです。ですから彼は、まだ混沌としている教会に、その存立の意味を、内容にも形にも示していきたいと願い、それが強い自己主張とも聞こえる言い方になったものと思われます。


U 十字架に敵対する者の中で

 「そのような人たちに目を留めてください」とあるのは、イエスさまの教会がどこにどれほど増え広がっていようとも、一つの交わりを志していたからでしょう。イエスさまの教会は一つの交わりだったのです。その一つの交わりが、信仰にも祈りにも一つ方向・イエスさまの福音に向いて歩んでいくように、パウロが目指したところは、その福音の確立だったのです。信仰者の一人一人が単なる教理ではなしに、イエスさまに結びついて一つ交わりになっていく。そのように立つことで、今、激しくなろうとしている迫害の中を生き延びていくことが出来るのです。これはパウロ時代のピリピ教会だけの問題ではありません。ここに描かれる信仰者たちの混乱状態は、今の私たちの時代をも見事に言い得ているではありませんか。そして、その混乱は、日を追ってますます多くなっているように感じられてなりません。パウロは、現代にも通じるそのような構図を見通していたものと思われます。

 彼は、「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」(18)と、鋭い警告を発します。十字架の敵(新共同訳・十字架に敵対している者)とありますが、これは、終末を意識したことばだそうです。直接的には恐らく、当時の迫害者たちを指しているのでしょうが、彼の脳裏には特に、各地の教会で混乱を引き起こしているユダヤ人を意識したと言えそうです。彼らは教会内に別の教えを持ち込もうとしていました。それは、異質な信仰を提唱する人たちが続出している現代の問題でもあるでしょう。彼の時代から、十字架の敵は、教会内部に多く輩出して来たと見ていいかと思われます。その一人に私たち自身が数えられることがないように、十字架の福音を、本当の意味で私たちの信仰の土台に据えることが、何よりも重要であると意識しようではありませんか。

 パウロは彼らに対して、「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」(19)と厳しい断罪のことばを突きつけます。これとは対象的な在り方が、イエスさまを信じる信仰であると、却って私たちがしなければならない信仰告白が浮かび上がってくるではありませんか。留意しておきたいことがあります。私たちがイエスさまを「私の主、私の神」と告白し続けるなら、主ご自身から「あなた」と二人称で呼び掛けられるのですが、もしも、その福音とは別のものに心を引かれるようなことになるなら、「彼ら」と、イエスさまの民の枠外・三人称で呼ばれることになるでしょう。もし私たちが、イエスさまの十字架とよみがえりの信仰からはずれていくなら、その厳しい断罪が私たち自身のものになると心しておかなければなりません。


V 天国の市民権を

 「けれども、私たちの国籍は天にあります」(20)と、いよいよパウロが目指すゴールが明らかになってきます。これは、「彼らの思いは地上のことだけです」と前節にある人たちとはまさに対照的な生き方を指し示したものと言えましょう。<国籍>とは、アテネなどのポリス(都市国家)の市民権を言うものですが、その市民権は、自由民だけに与えられるもので、アテネの市民たちは、その町にいて安心と非常な誇りを持っていました。アテネという町そのものが彼らの栄光だったのです。学生時代に或る教授が、「彼らはアテネに居住して安静(アトラキシア)を得ていた。ところが、アテネが滅亡してアトラキシアを失ったから、精神安定剤アトラキシンが必要になった」と、真面目な顔で言ったので、あっけにとられたことを思い出します。きっとジョークだったのでしょうが、ジョークとは言い切れない真実を含んで、さすが哲学の先生! その通り、アテネはスパルタとの戦争に疲労して衰亡の一途を辿り、あの誇り高い哲学の都が、今は田舎の片隅の観光都市になっています。パウロの時代、すでにそのようなアテネになりつつあったのでしょうね。パウロは東のアテネと言われたキリキヤのタルソに生まれ育ってエリート教育を受け、アテネ留学のチャンスもあったと思うのですが、アテネを選ばず、エルサレムに留学しました。そのように見て来ますと、本当の栄光は、やがて滅びてしまうようなアテネではなく、神さまの御国の市民権を持つところにあると、その輝く光栄がお分かり頂けるのではないでしょうか。

 私たちの信仰の戦い、信仰のマラソン・コースは、そのゴールを目指しているのです。どんなに熱心な信仰生活を送ろうとも、また、聖書を何十回読もうとも、打ち上げ花火みたいにしぼんでしまうなら、そのゴールに到達出来ないでしょうし、栄光の冠を手にすることはありません。現代のいろいろな兆候を見ていて、終末の、イエスさまにお会いする日が本当に近いと感じます。「そこからイエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(20)とあるのは、その時代に、彼はすでに終末のタイムテーブルを感じていたからなのでしょう。それから2000年が経って、一層、イエスさま再臨に集約される終末の足音が聞こえてくるのです。私たちの信仰をその時に向かって備えていかなければと思います。イエスさまを信じる信仰にしっかりと身をかためて、これがパウロの信仰告白なのです。私たちも彼といっしょに告白しようではありませんか。「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだをご自身の栄光のからだに変えてくださる」(21)と。そして、天国の市民権を認証された者として、堂々とキリスト者としての歩みを続けていきたいと願います。「わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る」(イザヤ書66:18) その主の約束は真実なのですから。