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走るべき行程を

    ピリピ書 3:12−16
詩篇 119:9−16
T パウロのマラソンから

 先週、福音の中心に触れて、イエスさまを「信じます」という一回限りの告白は、実は、私たちの長い人生のマラソンのような歩みに重ね合わせていくものだとするパウロのメッセージを聞きました。一回限りのその告白を、一度限りの私たちの人生そのものに重ね合わせ、私たちの信仰生活そのものであると理解することが出来ると思います。ですから、パウロはここで、イエスさまの十字架とよみがえりに「何とかして達したいのだ」と、苦闘する姿をさらけ出しているのです。イエスさまの十字架とよみがえりは、私たちがイエスさまを信じる時のキリスト教教理などではなく、生活のすみずみにまで物事を判断する信仰者の価値観として、絶対の基準を私たちに示してくれるものであると聞かなければなりません。私にとって、最も心して聞かなければならない部分であろうかと思われます。

 ところで先週、そのマラソンのような信仰の歩み、パウロがもっとも力を込めて語る彼自身の思いにまでは触れることができませんでした。今朝はそのパウロの「マラソン」にまつわる思いを取り上げて、彼のメッセージを聞いてみたいと思います。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(12)と、彼はその心情を吐露しています。イエスさまを信じる信仰の奥義に到達したと胸を張って言いたいのですが、内面を探っていきますと、到底、「得たのでもなく、完全にされているわけでもない」と、パウロほどの人でも言わざるを得なかったのでしょう。彼のその告白を聞きますと、私たちのような凡人は、パウロでもそうなのかと少しは安心させられますね。「得る」とか「完全」という言い方をしていますが、それは、十字架とよみがえりのイエスさまの姿に重ね合わせてのことではないでしょうか。イエスさまのお姿を信仰者の理想とすれば、はるかに及ばない者であるとパウロは嘆いているのです。しかし、その嘆きには希望がないわけではありません。イエスさまの十字架の愛に到達出来ないと嘆くパウロを、実は、イエスさまが捕らえてくださったからです。聞きたい第一のメッセージはそのところです。


U まずイエスさまが

 信仰を、自分がつかみ取って確立させていくのだと言わんばかりの風潮がピリピ教会に広がっていたのでしょう。恐らく、割礼もそうだったのでしょうが、ユダヤ人は細かな規定を教会内に持ち込んで福音を律法主義に変えようとしていました。割礼とか律法主義と聞きますと、遠い国の、ずっと昔のことかと思われるかも知れませんが、自分の努力で何とかなるというその視点は、現代の私たちにとっても宗教に対するもっとも基本的な姿勢であって、彼らユダヤ人と同じではないでしょうか。信仰の歩みをマラソンにたとえて、懸命に走る姿を示すパウロの姿勢は、もしかしたら、「彼は自分たちと同じではないか」という誤解を与えるかも知れません。

 「そうではない」とする大前提をまずはっきりさせておかなければならないと感じたのでしょう。「イエスさまが自分を捕らえてくださった」というのは、パウロの信仰の出発点でした。ダマスコ門外でよみがえりのイエスさまにお会いして、クリスチャン迫害者から異邦人の使徒に変えられた彼の証言は、恐らく、何度も繰り返し語られ、ピリピ教会の人たちはその証言を土台にイエスさまを信じる信仰へと導かれたものと思われます。そのことを思い出して欲しかったのです。彼が手を伸ばしてイエスさまを掴んだのではない。イエスさまが彼を見つけ出し、ご自分のものとしてくださったのです。私にしても全くその通りで、キリスト教のキの字も知らない時に、不思議な方法で教会に導いてくださり、その夜のたった一度のメッセージに感動させてイエスさまを信じる決心に導いてくださった。そのイエスさまが私の魂の主導権を握っていらっしゃると、そのことをいささかも割り引いて受け止めることがあってはならないのです。恐らく、悩み、苦しんで教会の門をくぐったお一人お一人にはそんな発端があったことと思いますが、それでも、あなたがイエスさまを見つけたのではない。まず、イエスさまがあなたの叫びを聞き、あなたの中に希望の灯をともしてくださったのです。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」(出エジプト2:7)とある主ご自身の宣言をあなたの中でしっかりと受け止めて頂きたいのです。それが信仰の出発点なのですから。


V 走るべき行程を

 あなたのマラソンがそこから始まるように、「イエスさまが私を捕らえてくださった」とまず第一に受け止めてください。そして、次にパウロが言うところに耳を傾けて頂きたいのです。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄光を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」(13−14) 12節の繰り返しですので、パウロの信仰姿勢を強調しているのだろうとは思いますが、「キリスト・イエスが私を捕らえてくださった」と、最も根本的な信仰姿勢が語られたあとに改めて繰り返されていることを考えますと、単なる繰り返しではなく、イエスさまが捕らえてくださったところから「目標を目指す信仰のマラソン」が始まると聞いたほうが当たっているでしょう。信仰には確かにイエスさまに<あなた任せ>のところがあるのですが、それでも、そのイエスさまを見つめて走り抜いていくひたむきな部分が私たちの生き方に問われているのです。しかしきっと、「宗教はほどほどに」という日本人の共通意識が出て来て、聖書に夢中になったり、イエスさまをじっと見つめたり、イエスさまのために懸命に働き始めたりしますと、それを阻もうとする誘惑や試みがそこかしこに待ち受けるようになっていきます。たまに教会に行くくらいならそれほど反対はされません。まあ、嫌味の一つも、ないでしょうね。しかし、それが毎週となりますと、「日曜日くらい家にいてよ」となる。いや、自分自身の内面に生じる疑問やためらいが一番の妨げなのかも知れません。しかし覚えて頂きたいのです。このマラソンはただのジョギングではない。いのちがけの戦いであると言っても過言ではありません。その壁を打ち破らなければ、この戦いの全貌が見えて来ないでしょう。もっとも、一部のクリスチャンに見られるような狂信的姿勢は、却って妨げになってしまうのでしょうが。
 パウロがここに「キリスト・イエス」と注意深く、信仰告白を前面に出した言い方をしていることを覚えて頂きたいと思います。この戦いは信仰告白の戦いなのです。それは、成人(15)として十分に知的でなければなりません。しかも、神さまのことばに裏打ちされた知性に……ですね。ですから、「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」(16)と言われるのでしょう。基準とはカノン、聖書正典がそう呼ばれてきました。教会は歴史の中でずいぶんと回り道もしてきましたが、「みことばに立つ」という聖書信仰を守り続けて来たと言えるでしょう。神さまのみことばが指し示す生き方とは違うところに立つことがないように、これがパウロの最も基本的な走り方でした。「私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました」(詩篇119:10−11)とあります。心にたくわえるとは暗記することです。バビロン捕囚のころにユダヤ人たちはそんな生き方をしていました。私たちも彼らを見倣って信仰の走るべき行程を走り抜きたいものです。