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イエスさまの義を求めて

ピリピ書 3:8−11
詩篇  94:18−19
T パウロが見つめるものを

 ピリピ書の続きです。2章の終わりで一旦筆を置いたパウロでしたが、時間をかけて書いたものを何度も読み返し、再びペンを取って、書き足りないと感じたイエスさま福音の中心部分を繰り返し語り始めました。最初に「喜び」が勧められ、そして、ピリピ教会内に混乱を起こしているユダヤ人を叱責してイエスさまを見つめるように願っています。めったに話したことのないユダヤ人としての自分を「誇りにしていた」とまで言い、しかし、その誇りをイエスさまの故に惜しげもなく捨てたと証言しています。イエスさまがそれ以上のお方でしたから、そのお方を見つめて欲しいと、これがこの書簡後半の発端でした。彼のペンはイエスさまの福音の中心へと進んでいきます。

 「それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」(9−11) これが今朝のテキスト全文ですが、何と中身の濃いことでしょう。パウロの信仰のスケールに圧倒されて、とても全部を網羅することはできませんが、信仰の大先輩・パウロが見つめているものの、ほんの一部だけでも覗いてみたいと願うのです。


U 神さまの前に走り抜いて

 最初に「キリストを得る」とあります。どのようなことを言っているのか良くは分かりませんが、このことばは<益を得る>の意味で、恐らく7−8節の「損」と対照的に用いたのでしょう。彼は、東のアテネと言われるキリキヤのタルソで、パリサイ人のユダヤ人家庭でエリートとして育てられてきたことに非常な誇りを持っていたようです。それは、ユダヤ人社会で生きていこうとエルサレム留学までしたパウロにとって、極めて有益なものでした。エルサレムでは恐らく、ユダヤ人社会の幹部候補生として迎えられていたものと思われます。しかし、クリスチャンを迫害し、ダマスコまで追いかけていったところで復活のイエスさまに出会い、以来、人間的には自分に益するものを捨てることで、彼は、イエスさまにある益を手に入れようと信仰の戦いを挑んでいったのです。14節で彼は、「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っている」(14)と言いますが、これは古代オリンピックのマラソンになぞらえた言い方です。これまでも度々言ってきましたが、ある一面で、信仰とは戦い抜いて獲得するもので、黙って待っていれば自然に手に入るものではありません。信仰は瞬発的に力を出し切る100mのような短距離競争ではなく、こつこつと走り抜いていくマラソンのようなものです。私たち現代人にとって、そのような耐久レースはまことに難しいものです。

 そのように走り抜いてイエスさまにある益を手に入れていく、それは、パウロにとって信仰にいのちを吹き込んでいくものでした。彼が語ってきた信仰の第二ステージには、そのような意味があったのではないでしょうか。「自分はキリスト者である」と、そのマラソン(戦い)で懸命に走っている姿をたくさんの人たちに目撃されることで、彼は「キリストの中にある者と認められる」ことを願いました。それは、その時代にクリスチャンとしての生き方を確立させる最も堅実な方法であると、ピリピ教会の人たちにも覚えて欲しかったのだろうと思います。認めて欲しいと願うのは周りの人々ばかりではありません。何よりも、神さまに認めて欲しい、彼のマラソンは神さまの前でのことだったのです。その点を煮詰めてみたいと思います。


V イエスさまの義を求めて

 ここに福音の中心として覚えて欲しいと願うエッセンスが語られます。「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです」(9) 福音の第一のエッセンスは、信仰による義という、パウロ神学の中心とも言われる事柄です。義とは「正しさ」ですが、それは、しばしば何らかの傷を隠してうそぶく「刑法上の罪を犯さない正しさ」とか、「倫理的な正しさ」といった人間同士の相対的な正しさをイメージしてしまいます。「律法による自分の義」とパウロが言うのは、そのことなのでしょう。しかしユダヤ人たちは、その義を追い求めて、得られない失望を繰り返してきました。律法を守ることでその義を得ようとする点では、パウロが属していたパリサイ派ユダヤ人がその最たるものでしょう。しかし、彼らがどんなに「安息日を忠実に守った」とか、「汚れたものを食べなかった」、「日に数回の祈りと断食を……」、「定められた祭りの儀式を欠かしたことはない」などと言い張ってみても、それで神さまの前に罪なしとして立つことはできなかったのです。旧約聖書が記録するイスラエルの歴史は、それを何度も何度も明らかにしています。きっと、パリサイ派の世界にたっぷりと浸かり切っていた時のパウロには、見えなかったものでしょう。それは、単にイスラエルだけではなく、現代に生きる私たちにも当てはまります。周囲の人たちに比べて「自分は結構正しい人間である」と、そんないい加減な言い方しかしていないのではないでしょうか。

 ところが、パウロはそのような義ではなく、神さまの前で通用する絶対的な義を得る望みを持っていると言い切ります。考えてみたいのですが、私たちはイエスさまを信じた時に、十字架に罪を赦され、神さまから義と認められたと聞いてきました。ところがパウロは、その義を得ようとしている途中であると言っているようです。「イエスさまを信じます」という私たちの信仰告白が神さまのところに届いていることは確実でしょう。その時点で私たちが義と認められたことも確かなことですが、神さまにとっては、「告白」という一瞬も、その信仰を生涯をかけて貫き通していくマラソンにも似た耐久レースも、同じ重さなのでしょう。そういう私たちのすべてを同じ目で見ておられるのです。私たちの告白は全生涯をかけてのものであり、それだけの厚みをもった「一度」であると覚えなくてはなりません。私たちの人生は一回限りのものであると今更言うまでもありませんが、その一度きりの人生を、イエスさまを信じる信仰の告白という「一度」に重ね合わせながら歩み通していきたいのです。

 パウロのメッセージをそのように聞いてきますと、「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したい」(9−11)という生き方が、私たちの信仰生活の中心であることが見えてくるように思われます。イエスさまの十字架もよみがえりも、私たちの信仰の重要な教理として語られているわけではありません。生活の歩みの中にどれほど根付いているかと問われているのです。福音のエッセンスは、十字架とよみがえりのイエスさまが、私たちの日常にどれほど息づいているかに尽きるのではないでしょうか。一生という道のりをパウロのように走り抜いて、主の問いかけに応えていきたいものです。『もしも私が私の足はよろけています』と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように」(詩篇94:18)