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信仰の見張り所に立って

   ピリピ書  3:1−8
ハバクク書   2:1
T 喜びの信仰を

 パウロは、2章でテモテやエパフロデトをピリピに遣わそうとする思いを伝えたところで、一度はこの手紙を閉じようと思ったのかも知れません。2章までと3章以降を別人のものと考える人たちがいるほど、その間が途切れています。しかし、パウロはまだ語り足りないところがあると、一旦止めようとした筆を持ち続けたのではないでしょうか。「最後に、私の兄弟たち」(3:1)とあるのは、そんなパウロの意識と思われます。今朝は少し中途半端な区切り方ですが、1−8節から、パウロがなお語り足りないと感じているものをいくらかでも聞き取っていきたいと願います。

 「主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためになることです」(1)  きっと、2章までを書き上げてからしばらく時間をおいて、その間に書き上げた手紙を何回も読み返したのでしょう。「喜び」ということがこの書簡の特徴になっているほど語られていましたが、まだ十分ではないと思うのです。それで、再びその「喜び」から始めようとします。この喜びということばは、パウロの書簡だけではなく、マタイから黙示録まで新約聖書全編を通してたくさん用いられており、イエスさまの福音のエッセンスと感じられます。福音そのものとさえ言うことが出来るでしょう。パウロが言い足りないと感じているそれは、イエスさまの福音に立って欲しいと願い、これまで何度もそう勧めてきましたが、まだ十分ではないという感触からでしょうか。<同じことを何度も>、それは、パウロのような知識人の嫌う書き方だったでしょう。今でも、しつこいのは嫌われますね。しかし、あえてパウロはそのしつこさを繰り返します。「それは煩わしいことではない」と念を押して、「それはあなたがたの安全のためでもある」と別の理由を上げるのです。福音に立つことが喜びであるなら、彼らを見ているローマ人たちも警戒心を緩めてくれるのではないかと、パウロの切ないまでの願いが感じられます。


U 十字架の主を

 それにしても、クリスチャンに対して警戒心を顕わにしている人たちには、信仰者の喜びという福音の発露をもっても、その警戒心を緩めることは難しいと、パウロの嘆きが聞こえてくるようです。その人たちのことを、逆にあなたたちが警戒しなければなりません、と言いたいのでしょう。パウロは、厳しいことばでそのような人たちのことを明らかにしようとしています。

 「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください」(2)と、まるで3種類の人たちがいるかのようにピックアップしていますが、これは同じ人たちを指しているのです。東方の世界で、犬とは人に嫌われるのら犬のことで、それは人を侮蔑することばに転用されていました。日本でも芝居などで「犬侍め」と出てくる、これと同じニューアンスでしょう。ユダヤ人はこれを、異邦人に向かって投げつけるように使ったのです。彼らにとって、クリスチャンの存在も異邦人同様、「犬」でした。パウロはそのことばを、彼らユダヤ人たちに突き返しているようです。「あなたたちこそ恥知らずの犬と同じではないか」と。「悪い働き人」も彼らユダヤ人を指しています。彼らは行く先々でクリスチャンの悪口を言って回ったのでしょう。「悪い働き」とは、そんな彼らの悪しき熱心を指しています。そして、3番目の「割礼の者」は、もっと明確にユダヤ人を指しています。彼らは、自分たちが神さまと契約を結んだ選びの民であると高い誇りを持っていましたが、その契約のしるしが「割礼」でした。その誇り高いしるしを、パウロは「肉体だけの」となじります。肉体にユダヤ人としてのしるしを持っていたとしても、それが神さまから選ばれた者であるという保証にはならない。むしろ、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちほうこそ、割礼の民なのです」(3)とパウロは、神さまの民であることに「肉体的なしるし」は何の意味もなく、イエスさまを救い主であると告白する信仰者こそ、真に神さまの民であると主張してやまないのです。ここも「キリスト・イエス」という言い方になっています。繰り返しておきたいのですが、「イエスさまは主である」という告白を強調するときに、パウロはこの言い方をしてきました。この言い方はパウロだけのものです。「十字架の」イエスさまに対する信仰告白であると、はっきり言ったほうが的確でしょう。その告白に立つ者でありたいと心から願います。ただし、「人間的なものを頼みとしない」という厳しい条件がつけられていることを、現代の私たちはもっともっと留意する必要がありそうです。


V 信仰の見張り所に立って

 「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です」(4) 人間的とは、ユダヤ人の誇りの部分であると言うのでしょう。それならば、「私は彼ら以上の者である」とパウロは、彼らの誇りの部分に踏みいります。ピリピ市に居住するユダヤ人たちは多くはなく、彼らの会堂は建てられていなかったようですが、だからでしょうか、ピリピ教会にはユダヤ人たちが沢山いたようです。ユダヤ人たちは教会を彼らの会堂になぞらえ、そこを彼ら独特の世界にしたいと願っていたのでしょう。彼らはイエスさまの福音を聞き、信じました。しかし、現代のユダヤ人クリスチャンが「メシヤニック」と呼ばれる特有の信仰形態を造り上げているように、彼らは律法による義の世界を、教会内に造り上げていたようです。その律法にさまざまに細かな規定を付け加え、それを守ることで、世界中に散らされている「神の選民」という彼ら共通の意識としています。そのような感覚は、私たち外国人にはとうてい理解出来ないでしょう。そして、そのような感覚のずれは、当時のピリピ教会の場合にもあっただろうと思われます。

 パウロは、そんな律法による義、イエスさまを抜きにした福音がピリピ教会にはびこりつつあることに、憤慨を顕わにするのです。彼らが誇りとするユダヤ人としての毛並みなら、「私は8日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(5−6)と、自分はひときわ上等の者であると誇ります。その点でパウロの名前はユダヤ人社会に良く知られており、行く先々で彼はユダヤ人会堂を伝道の拠点に利用したほどです。その名前の効力がピリピ教会などの若いユダヤ人たちの間で薄れていたのかも知れません。きっと、パウロに反感を持っている人たちが、そんなパウロの名前の重みを知らない割礼の者たちと近づいていたのでしょう。そして、イエスさまが軽んじられているのです。

 パウロは自分の名前がもっと重んじられるようにと言っているのではありません。イエスさまの教会で、イエスさまが抜きにされ始めていることに異議を申し立てているのです。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(7−8) それほどに大切なお方、イエスさまを見失ってはいけないと、それがこの彼のメッセージなのでしょう。見つめるべきお方を見つめなさいと聞いていきたいのです。「私は、とりでにしかと立って(主が私に語られることを)見張る」と宣言した預言者ハバククの信仰に倣いながら(2:1)。