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いのちのことばを

ピリピ書   2:12−18
詩篇 119:105−112
T へりくだって主への告白を

 2:1−2に、「もしキリストにあって励ましがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」とありました。そして3節から「互いにへりくだるように」と勧められたのです。先週は、その「へりくだり」がイエスさまの十字架への信仰の告白に根ざすものであると聞いてきましたが、それは私たちの信仰の本質に関わることでしょう。確かに、私たちが主の前にも、人の前にも、本当にへりくだることが出来るのは、「十字架のイエスさまを信じます」という告白に立った時ですね。

 今朝は2:12−18からですが、「救い」(12)が取り上げられています。新しい主題ということではなく、「へりくだり」に続いて、信仰の本質に関わる第二の勧めであろうと思われます。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください」(12) 「そういうわけですから」と始まりますが、これは、イエスさまの十字架と、その十字架のイエスさまの前にひざまづいて「わが主、わが神」と告白する者の信仰の姿勢を言っているのでしょう。パウロがこれを伝え、聞いて欲しいと願った人たちは、パウロも会ったことのある人たちで、彼らの信仰告白はパウロ臨席のもとで行われたのでしょう。「私がいるとき」とはそのことを指していると推測されます。パウロと離れている今も、その告白に立ち続けて欲しいと、これがまず第一に考えられる「救い」の内容です。「恐れおののいて」とあることばは、人間的な恐怖を意味するものではなく、信仰の一部をなす敬虔と考えていいでしょう。告白と言いますと、血の通わない冷たさを感じるかも知れませんが、「イエスさまを信じます」という告白には、私たちの全身全霊を込めた血潮たぎる熱いものが流れているのです。その告白に「へりくだり」が伴うのも、それが私たちの全人格的な告白だからなのでしょう。


U 神さまへの信頼を

 ところで、信仰には「信じます」という告白の部分・第一ステージと、信仰が日常の生活の中で問われる部分・第二ステージの二つの舞台があると聞いてきました。本当は信仰の舞台にそんな区別はなく、ただ日常生活の場で生きた告白がされているかと問われているのです。しかしパウロは、便宜的に第二ステージを設定し、その観点から「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」(1:9−10)と祈りました。その第二ステージで、救いのもう一つの面を強調しようとしているのでしょう。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(14−16)とあります。第二ステージでの信仰の中身が問われており、「救い」の第二ステージと言い換えても良いでしょう。「曲がった邪悪な世代の中にあって」とは、次第に近づく迫害の時代を指しており、ここは「イエスさまの十字架に罪を贖われ、救われた者として、このように生き抜いていきなさい」という勧めが含まれているのです。そのような迫害者たち(たとえばネロ皇帝のような人たち)から、「クリスチャンたちは、いのちのことばをしっかり握っている神の子どもだ」という尊敬を勝ち取るために、世の光として輝いて欲しいと願っているのです。

 救いの第二ステージ、ここからまず一つのことを学びたいと思います。「つぶやかず、疑わずに行いなさい」ということです。「つぶやき」も「疑い」も不安や不満から出てくるもので、それは神さまへの不信仰に他なりません。ですから、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志しを立てさせ、事を行わせてくださるのです」(13)と、神さまが救いの第二ステージにおいても主役だと言っているのです。神さまが事を進めてくださるという神さまへの信頼に立つなら、「つぶやき」も「疑い」も不要となります。神さまへの信頼は、つぶやきや疑いの根っこである不安や不満を私たちの生き方から取り除いてしまうと覚えたいのです。


V いのちのことばを

 救いの第二ステージ、パウロのボルテージが上がってきます。「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って輝くためです」(15) これは、迫害者たちが「クリスチャンとはまことに輝いている者たちだ」と、その目が変っていくことを願ってのものだと聞きました。しかし、もう一つのことが聞こえてきます。それは、クリスチャンは、「世の光」として、この世のあらゆるところで輝くために、神さまから召し出された者たちだということです。神さまを知らない人たちの世界は、実は暗闇の世界であって、私たちが輝いていくなら、その暗闇がはっきり暗闇だと明らかになっていく、パウロはここでそう語っているのです。彼らが手に入れる権力や知恵や経済力は、私たちがどんなにがんばっても太刀打ち出来ないところがあるでしょう。そういう意味でのクリスチャンの力は、まことに弱く、小さいものです。きっと、イエスさまが「私を拝め。そうすれば、この世の権力と栄華をことごとくあなたにあげよう」(マタイ4:8−9)と言うサタンの誘惑を斥けた時から、イエスさまを信じる者たちの生き方が、世の権力や栄華とは無縁になったのでしょう。むしろ、そういったものとは敵対関係になったと理解してもいいのかも知れません。クリスチャンになろうとするなら、大金持ちにはなれないと覚悟しなければならないのでしょうか?

 そのような世のこととは切り離されたところに、クリスチャンが輝いていく生き方があるとパウロは勧めているのでしょう。特にピリピ教会には、目敏く耳賢い商人たちの生き方が染みついた人たちがいます。それが「伝道」という面での競争になってしまったのでしょうか。そんな生き方ではなく、「つぶやかず」、「疑わず」、「純真な者となり」、「傷のない」、「神の子どもとして」、「いのちのことばをしっかり握って」、「輝いて」いるようにと、如何にも現代人とは逆の生き方ですが、そのような輝く生き方があると覚えていきたいものです。「いのちのことばをしっかり握って」とありますが、これは、「私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても」(17・レビ記や民数記を参考)と旧約聖書の犠牲のことが言われていますので、恐らく、聖書に裏打ちされた信仰を言っているのでしょう。何の説明もなしに旧約聖書のことを持ち出して、それほど彼らは「いのちのみことば」を学んでいたのでしょう。私たちも単なる知識としてではなく、「いのちに至る神のことば」として、「みことばの真剣な学びを」していかなければなりません。間もなく、殉教の時がやって来ることを覚悟しながら、パウロは、そのような「いのちのことばをしっかり握った」信仰者たちを見たいと願っています。それがパウロの喜びでした。一人の魂が主のものになることが本当に嬉しいんですね。その喜びがあって伝道者を40数年続けてきました。あなたもその喜びに加わって頂きたいのです……。