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     ひざをかがめて主を

ピリピ書 2:9−11
イザヤ書 45:22−25
T すべての名にまさる名を

 先々週、先週と、「十字架の死にまで従われた」とあるイエスさまの従順と、その接点としての私たちのへりくだりを見てきました。パウロが私たちに「へりくだりなさい」と教えるのは、決してイエスさまの十字架の従順に倣いなさいということではありません。そのような従順はイエスさまただお一人だけのことであって、私たちは、私たちの罪がイエスさまを十字架につけてしまったほどに大きく、それほど底の深いものであることを知らなければなりません。イエスさまが十字架に私たちの罪を贖ってくださったと、私たちが覚えなければならないへりくだりは、その一点に尽きると言えます。

 十字架のイエスさまを父なる神さまがどのように受け入れられたか、これはパウロの証言であり、信仰であり、神学でありますが、初代教会が確立していった信仰姿勢でもあります。そこから聞いていきたいのです。「それゆえ、神はキリスト(彼)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(9)と始まります。ここにも「キリスト」という呼び方がされています。これも8節同様原文にはなく、このフレーズが6節からの続きであることが汲み取れます。「神」とは父なる神さまのこと(11)です。それは、厳格な律法遵守の立場に立つパリサイ派のユダヤ人としてのパウロが、幼い時から聞き、教えられて来た神さまであり、旧約聖書に啓示されたユダヤ人の父祖アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を指しているのです。不思議なことに、多神教のローマ、ギリシャ人たちが大勢を占めるピリピ教会の人たちが、何の疑問もなく、その神さまを受け入れているのです。そして、パウロもまたそれ以上「神さま」の説明をしていません。イエスさまを私たちにお遣わしになった方、それだけで十分だったのかも知れません。それほどイエスさまが中心だったのです。分派の問題も、そのイエスさまをどのように宣べ伝えるかが争点でした。その救い主に、イエスさまのお父さんが「すべての名にまさる名をお与えになった」というのですから、もう何も言う必要はありません。「すべての名にまさる名」とは最高の存在であって、それは、イエスさまが神さまご自身であることの認証に他なりません。


U 神さまが忘れられた中で

 一つの疑問が残ります。もともと栄光の位にあったイエスさまに、なぜここでまた「あなたは主である」と言う必要があったのでしょう。「すべての名にまさる名をお与えになった」と言われることには、そのような奇妙な手順が踏まれているようです。その手順の意味を考えてみましょう。

 残念ながらパウロはその辺りのことを全く触れていませんので、推測する以外にないのですが、パウロには、パリサイ人として、残念でならないことがあった。それは、ユダヤの歴史を通して、神さまが疎んじられているということでした。旧約聖書を読み通してみるとはっきりするのですが、ユダヤ人は「神さまの選民である」と誇ってはいたが、内実は不信仰のかたまりであって、預言者たちは、そんな同胞を自分のことのように嘆きながら、その不信仰を告発してやみません。パウロの誇りだったパリサイ人の「厳格な律法主義」も、裏を返せば、重箱の隅をほじくるような、規則に規則を積み重ねていくだけの不誠実なものでした。神さまのことを忘れて、周辺の規則だけが強化されている。断食が律法に定められているのは年一度の大贖罪日だけですが、イエスさま当時には年に数回、いや月に何回も行なうように「通達」されていました。食事前に宗教行事として手を洗うことが習慣化されているのも、「こんなにも宗教に熱心なのですよ」と言いたいがためであって、確かに彼らは宗教的模範生のようでした。しかし、そこに神さまがおられないのです。イエスさまは、そんな「言い伝え」に固執するユダヤ人指導者たちを断固糾弾しています。「木を見て森を見ず」とあるように、細かなところに気を配りすぎて、本質を忘れる、現代の私たちのあり方にも通じているようです。

 そのように、神さまのことがないがしろにされる風潮の中で、イエスさまは「死にまで従い、実に十字架の死にまで従われ」ました。父なる神さまの意志をそれほどに重んじられたのです。だからこそ、イエスさまにそのご栄光を返されたのでしょう。これが、イエスさまに「すべての名にまさる名をお与えになった」第一の理由であろうかと思われます。


V ひざをかがめて主を

 そして、イエスさまの御名が高く挙げられたもう一つの理由がありました。それがこの箇所の中心主題であろうと思うのですが、耳を澄ませて聞いてみたいところです。

 「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(10−11)とあります。ここでは「イエス・キリスト」となっています。恐らく、イエスさまの人間性も神性も、またメシヤであることも、何から何までひっくるめた全ご人格を指す呼び名と思われますが、ここでは、特にイエスというお名前が先に掲げられ、前面に打ち出されています。

 そのパウロの意識に注目しなければなりません。「イエス」とは言うまでもなくヨセフとマリヤの子どもとして、「その名をイエスとつけなさい」と神さまの指示があってつけられた個人名でした。それは「主は救う」(ヨシュア)という意味でしたが、当時、旧約時代の同名の偉人ヨシュア(イエスはアラム語で音読みしたもの)にちなんで好んで用いられたごくありふれた名前で、それが前面に打ち出されているのは、このお方の人間としての面を重んじてのことと感じます。パウロはそのことを覚えて欲しいと願ったから、「キリストは神の御姿であられるお方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」(6−7)と伏線を張ったのでしょう。その伏線から考えてほしいのですが、イエスさまの人間性とは一体何でしょう。しもべとして十字架にかかられたことではないですか。イエスさまは、十字架におかかりになるために人間になられたのだと断固主張しているパウロの思いが聞こえてくるようです。

 クリスチャンとは、イエスさまが十字架に私たちの罪を背負って死んでくださったと信じる者たちのことではないでしょうか。私たちの信仰から十字架のイエスさま、いや、イエスさまの十字架を取り除いてしまうことは断じてできません。もっと端的に言いますと、その十字架の故に、私たちはイエスさまを「わが主、わが神」と告白するのです。それはご自分の民であった私たち人間が、もう一度神さまの民となるために、どうしても必要な過程でした。イエスさまの十字架の赦しなしに、私たちが聖なる民として復権することはできなかったからです。「天にあるもの」とは天使のことでしょうか。「地にあるもの」とは私たちを指しているのでしょう。そして、「地の下にあるもの」とは、2000年の歴史を経てすでに眠った信仰者たちを指しているかと思われます。イエスさまの十字架の贖いは、それほどまでに時間も空間をも超えて輝いているのです。そのお方への告白を父なる神さまがこんなにも喜んでおられる。その十字架の故に、父なる神さまがイエスさまに栄光のお名前をお与えになったからです。終わりに、「ひざをかがめて」(10)とあることばに注目したいと思いますが、告白は私たちの礼拝とともに行われるのです。ひざをかがめることなしにイエスさまの十字架と向き合うことはあり得ないし、またあってはなりません。