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十字架の信仰に

ピリピ書 2:8
イザヤ書 53:10−12
T ご自分を卑しめて

 先週、6−7節から、「神と等しくあることを固守すべきこととは思わず」と、しもべになる戦いを聞きました。イエスさまにとっても葛藤の日々だったでしょうが、その捨てるべきものを見つめる戦いは、パウロや当時の弟子たちにとっても、イエスさまについていくチャレンジと受け止めなければならないものでした。とりわけ私たちにとって、人となったイエスさまをどのように受け入れるのかと問われてくるのではないでしょうか。果たして、イエスさまのへりくだりを、私たち自身の信仰の中味としていくことが出来るのか、そのところを続けて聞いていかなければなりません。今朝は受肉(ご降誕を意味する)されたところから、もっと突き進んだイエスさまのへりくだりを見ていきたいと思います。

 8節です。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(8) 6節と同じように「キリストは」と始まりますが、これは原文にはありませんが、そのニューアンスを引き継ぎ、神さまご自身であるイエスさまを更に証言しているのでしょう。「人としての性質をもって現われ」とは、「しもべのかたちをとり人間の姿になった」(7)とあることの繰り返しで、本質と訳したいところです。ここを口語訳は「その有様は人と異ならず」、新共同訳は「人間の姿で現われ」と訳しますが、イエスさまは、本来の神さまのご栄光を維持したまま、仮の姿として人間になられたのではなく、心底、本物の人間になられたわけですから、新共同訳が妥当と思われます。パウロの真意は「人間としてこの世に来られた」ということです。しかも、その「人間」は「奴隷」の姿でした。「自分を卑しくし」とは、新改訳ですと、人間として、次第に自分を卑しめていき奴隷になったと聞こえますが、初めからそのような者として意識され、私たちのところに来られたのだと聞いてゆかなければなりません。永井訳はそのパウロの意識を見事なまでに訳出しました。「また人としての状にて見出され給いて、死、十字架の死にさえ至るまで順う者となりて、己自らを卑うし給いたり」 きっと、そのお覚悟で人のかたち、奴隷の姿を選び、私たちのところにおいでになったのでしょう。


U 従順であるために

 二番目の問題点です。「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われて、ご自分を卑しくされました」と聞きますと、イエスさまにとって、死などというものはあり得ないことだという使徒の思いが浮かんできます。まずイエスさまにとっての「死」という問題を考えて見なければなりません。

 地上のあらゆることが人にとって不平等に展開されている中で、生と死だけはすべての人に平等であると言う人がいますが、生はその境遇に差があって、生まれた時から、生も不平等と言えるかも知れません。しかし、死だけは、栄華を極めた者にも貧しい者にも、その意志とは関係なく、確実に襲いかかってくるのですから、全く平等と言えるでしょうか。しかも、その平等は死のランクづけではなく、万人に平等に、いつか確実にやって来るという意味での平等です。何人といえども、そこから逃れることは出来ないし、どんなに生きたいと願っても、その願いを根こそぎ打ち砕いてしまうもの、自己という生の消滅こそが死であると言えましょう。

 しかし、イエスさまは、ご自分の死をご自分の断固たる意志で決定されました。「従われた」とはそのことを意味します。まさに「キリスト」としての決断でした。もしかしたら、ご栄光の姿に戻られて……という可能性もあったと思うのですが、その可能性については、先週、山上の変貌で、ペテロが「ここにあなたのために天幕を建てましょう」と言ったことから聞いた通りです。しかしイエスさまは、そのご栄光を捨ててまで、みじめな死への道をお選びになりました。それがイエスさまの従順であるとパウロは証言しているのです。死をお選びになったから従順であったのではなく、従順であるために死をお選びになったのです。その「従順・へりくだり」が、ここでのパウロの中心主題でした。その主題の中でイエスさまの従順を聞き直してみたいと思うのです。


V 十字架の信仰に

 「従順」は「聞き従う」という意味です。ご主人の命令に聞き従う奴隷の姿を思わせるではありませんか。それならイエスさまは、誰に聞き従ったのでしょうか。ヘブル書に「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」(5:7−8)とあります。子として父なる神さまに聞き従ったのです。つまり、イエスさまの死は、父の意志でもあったわけです。先に、死はご自分の意志からであったと言いましたが、父なる神さまの意志とイエスさまの意志とが一つになっている。私たちには最もミステリーな部分と言えましょう。しかし、明らかにイエスさまは、神さまご自身として死そのものを受け入れる強い意志をお持ちになった。それが従順であったと言われるのです。

 ところで、少しくどいかと思うほど、イエスさまの従順がご自身の強い意志からであったと繰り返してきました。なぜ、繰り返してきたかと言いますと、恐らく、そのような従順は、本来の人間である私たちは持ち得ないものだからです。それなのに、「へりくだりなさい」と言われ、私たちに要求されるそのへりくだりがどのようなものか、煮詰めていかなければなりません。そのところにイエスさまの従順と私たちのへりくだりとの接点があるのではと考えるのです。

 イエスさまの究極の従順は十字架の死であると証言されています。もしかしたら、「死にまで従い、十字架の死にまで従われた」とあるところを、普通の死よりも十字架の死のほうが従順の度合いが強いのだと聞こえるかも知れません。しかし、イエスさまが決断された「死」は初めから「十字架の死」以外にはあり得なかったのです。運命としての(多くの人が死をそのように考えている)病死とか事故死をパウロが想定しているわけではありません。そのことを考えますと、ここにわざわざ十字架の死が重ねられたのは、別の意味があってのことと思われます。

 ピリピ教会の人たちが、イエスさまに向かって「私の救い主です」という信仰の告白をしていたその告白は、イエスさまの十字架が「罪の赦し」であったとする告白の筈です。その理解が当然でしたから、「十字架」のことに触れながら、告白だけが強調された(11)のだろうと思われます。彼らは、この「へりくだり」が教えられるところで、イエスさまの十字架の従順が持ち出されたことを、どのように聞いたのだろうと考えさせられました。「あなたも十字架の死への従順をまねしなさい」と聞いたわけではない。そうではなく、「自分の罪をイエスさまが十字架に死んでまで赦してくださったのだから、これ以上、イエスさまを悲しませるようなことはすまい」と受け取ったのではないでしょうか。「へりくだり」とは、決して倫理的な謙遜ではなく、「私は、イエスさまを十字架に死なしてしまったほどの罪人である」と、そこで信仰の告白が求められていると聞かなければなりません。イエスさまに対する信仰告白としてのへりくだりです。そこにいのちがあるのです。イエスさまが十字架にご自分のいのちをかけられたのは、私たちがそのいのちに生きるようになるためでした。そのための十字架の死という従順への決断だったのでしょう。パウロの信仰もそのお方に結びついた、十字架の信仰と言って良いかと思います。同じ信仰に生きる者でありたいですね。