ピリピ書 2:6−7
ミカ書  6:6−8


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へりくだって主とともに

                                             

T キリストは


 分派という争いの渦中にあるピリピ教会の人たちに、「信仰の一致を」と願ったパウロが、最も具体的な信仰者の在り方として掲げたものが「へりくだり」でした。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」(2:3−5)とありましたが、キリスト者の「へりくだり」はイエスさまからのものなのです。そのイエスさまのへりくだりがどのようなものであったか、6−11節に、いくつもの聞かなければならない大切なことがありますので、何回かに分けて聞いていきましょう。今朝は6−7節からです。

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(6−7) 第一に取り上げられるイエスさまの「へりくだり」は、「人間になられた」とあることですが、最初にパウロは、イエスさまの本質に関するところから始めようとしています。

 「キリストは」と口火が切られます。イエスさまのことをパウロはいくつもの呼び方をしていますが、その用い方には彼なりのルールがあるようです。当時、ごく普通に用いられていた「イエス・キリスト」を、彼もいちばんポピュラーな呼び方としているようですが、それは、イエスさまの総合的ご人格を指し示す時の言い方です。それが、信仰の告白を献げるお方であるとこだわるときには、断固、彼だけしか用いない「キリスト・イエス」という言い方をします。そして、イエスさまの人間性を大切にしようとするときは「イエス」と言いますが、イエスさまが神さまご自身であると強く主張するときには、「キリスト」と呼んではばかりません。このテキストの場合がそうでしょう。キリストとは、油を注がれて任職した王、大祭司、預言者という3つの職責を担うべく、神さまから遣わされる神的人物・メシヤ(キリストはそのギリシャ語訳)でした。イザヤが語る「インマヌエル」はまさにそのような人物だったようです。ユダヤ人たちにそのメシヤ待望の信仰が膨らんでいましたが、彼らはそれがイエスさまであるとは断固認めないのです。しかし、パウロはイエスさまこそ、その「キリスト」であると宣言しています。ですから、「キリスト」と聞くときには、彼と恐らく先輩クリスチャンたちの、「イエスさまが神さまご自身である」との宣言を強く含んでいると聞かなければなりません。


U 神さまのかたちを

 そのキリストは「神の御姿であられたのに」とパウロは続けます。ここは、古くからいろいろと問題にされてきたところですが、大きく分けて、イエスさまは「神さまご自身である」、「神さまに似たお方である」という二つの見解があるようです。これはパウロの時代から迫害の時代を通じて大きな問題となっていたようで、キリスト教がローマ公認の宗教となって間もなく、4世紀のニカヤ教会会議で東方西方の両教会が議論し、ついに「イエスさまは神さまご自身である」とする西方のアタナシュウス派が正統神学と認められて一応の決着がつくまで続いた神学議論で、現代にまで尾を引いているイエスさまに関する代表的な議論と言えましょう。ですから、私たちが「イエスさまは神さまご自身である」と言う時に、<私たちは正統神学を引き継いだ者である>とつい肩に力が入ってしまうのですが、パウロ自身はごく単純に、イエスさまは「神さまと同質のお方」、つまり、「神さまご自身である」という意識の中で、「キリストは神の御姿」と言っているのでしょう。パウロが冒頭に注意深くわざわざ「キリストは」とつけたその意図も、彼のその意識が強調されていると感じられます。

 「キリストは」と聞かなければなりません。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず」と訳した口語訳は、そのような単純な意識を念頭に置いて訳されたと聞こえてきます。新共同訳は「キリストは神の身分」となっています。 パウロの意識は、イエスさまがその神さまのかたちをあっさりとお捨てになったことの方を重要と考えているようです。「神と等しくあること」を「固守すべきこととは思わず」とあるのは少々説明を要します。「等しい」とは、パウロの理解にすでに「子なる神」としてのイエスさまが確立していたからでしょう。単に「神」と言う時、それは「父なる神」を指しているのです。イエスさまは、もともとの神さまとしての身分を、ご自分にとっては無価値なものと判断され、だからこそ惜しげもなく捨てることが出来たのだという意味で用いられているのです。勿論、そこに葛藤はあったでしょうが、ご自分の意志をそのようにして貫いたとパウロは宣言しているのです。何と大胆な宣言ではないでしょうか。しかし、それこそイエスさまの「人となられた」中心主題でした。


V へりくだって主とともに

 福音書には、何回かイエスさまのその葛藤が記されます。その一つは山上の変貌(マタイ17章)ですが、恐らく、ヘルモン山を舞台にして、同行したペテロたち三人の弟子が、モーセ、エリヤと話しているイエスさまを目撃した時、「彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(2)そのご様子に、恐ろしさのあまりひれ伏して、しばらくしてから目を上げると、「だれもいなくなり、ただイエスおひとりだけであった」(8)と強調されています。それは、イエスさまのその葛藤を指しているものと思われます。イエスさまは、そのようなご栄光のお姿から人間の姿に戻られ、十字架の道を選ばれたと理解していいでしょう。「神と等しくあることを固守すべきこととは思わず」とある戦いが何度もあったと見ていいのではないでしょうか。

 しかし、当時、すでにイエスさまの周りから多くの人たちが離れ、ユダヤ人指導者たちがイエスさまのいのちを狙っておりました。ペテロが「ここに、モーセとエリヤとイエスさまのために三つの天幕を建てましょう」と言ったのは、「苦難の道を選ばずとも、ご栄光のままのイエスさまでいいではないか」という理解があったからです。その葛藤は弟子たちの葛藤でもあり、恐らく、パウロのそのような宣言が確立していく中に生まれた葛藤でもあったでしょう。それが信仰者の、「イエスさまは私の主である」との告白が生まれていく時の自然な葛藤でもあろうと思うのですが。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」(7)とは、イエスさまの在りようでもありましたし、そのイエスさまの前に立つ私たち信仰者の在りようでもあると受け止めるべきでしょう。「人間と同じように」とあるのは、「人間の姿になられた」(口語訳)のほうが良いと思います。イエスさまは一時的に人間という仮の姿になられたのではなく、心底、本物の人間になられたのです。しかも、普通の一般市民ではなく、「しもべ(奴隷)のかたち」に。銀貨30枚で売り渡された、それはまさに奴隷の値段でした。「かたち」とはそのものなのです。それほどの真実をもって、イエスさまは私たちの前に立ってくださったのです。イエスさまはご自分が「へりくだった」とは意識されませんでしたが、私たちには、あのご栄光の主が! と驚かずにはいられません。「無にする」とは「空っぽにする」という言い方です。

 そのへりくだりはパウロにとって強烈だったのでしょう。そのへりくだりを、信仰の鋭い感性をもって受け止めて欲しいという彼の願いです。イエスさまに目を向けるなら、誰が一番かなどという分派の争いは、いかにもむなしく、そんな人間のことなどどうでも良くなるほどの生き方を志すことが出来るのです。イエスさまを信じる信仰は、それほどの生き方なのです。「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)と預言者も証言する信仰の生き方です。