愛の告白共同体に

ピリピ書   1:1
詩篇  133:1−3
T 何を聞こうとしてか

 しばらくの間、ミカ書、イザヤ書と旧約聖書から預言者を取り上げて来ましたが、先週でイザヤの第一部(1−39章)を終えましたので、第二部に入る前に、新約聖書から見ていきたいと思います。今まで何回か、ピリピ書2:16を中心に「キリストのことばを持つ者のように」と信仰者の生き方を学びましたが、私自身の生き方もあって、まだまだみことばに教えられなければならないと感じています。旧約が一区切りついたところで、もう一度、ピリピ書を、今度は全部を通して見ていきたいと思いました。実は、伝道者として礼拝説教をするようになって間もなくの頃から、何回も何回も取り上げてきた書簡でして、私には殊更馴染みあるものですが、回を重ねるごとに、もっと深いパウロの信仰が聞こえてくるようで、受け止める側の意識がこれほどまでに問われるものかと、ある意味で強烈な書簡だったようです。今回も、信仰者として私自身どれほど変わったのか、未だ入り口をうろうろしているだけなのか、内面にある声と対話しながら読み進んでいきたいと願います。

 今朝は冒頭1:1からですが、13通あるパウロ書簡の一つの定型でありながら、ピリピ書全体を見渡すものではないかと思われます。この書簡は、パウロの第一次ローマ入獄の折に書き送られたもので、エペソ書、コロサイ書、ピレモン書とともに「獄中書簡」と呼ばれています。同じ時期に他の3つの書簡が小アジアの教会に(ピレモン書だけは個人的書簡)送られているのに、この書簡はマケドニアの商業都市ピリピの教会へ送られています。エペソ書とコロサイ書が双子の書簡と言われるほど似ているのに、ピリピ書は違った内容ということも興味を引きます。その辺りも念頭におきたいところです。第一次ローマ入獄と言いますと、使徒行伝の終わりに、パウロが「満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて……」(28:30)とあって、獄中と言っても、ローマ兵の監視つきながらかなりの自由が保証されていたようです。パウロを訪ねて来る人たちも多く、ローマのクリスチャンたちの一つの中心になっていたのでしょう。そんなローマ教会の雰囲気も聞くことが出来ればと思います。


U 告白教会であることを

 
一節の前半に、「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから」とあります。第一に見たいことは、「キリスト・イエス」という言い方です。現代の私たちはイエスさまを普通に「イエス・キリスト」と呼びますが、聖書には「キリスト・イエス」という呼び方も非常に多いのです。その回数は半々くらいですから、特別な意味を汲み取るのはどうかと思いますが、もしかしたらキリストを先に置くことで、「このお方はメシヤなのだ」という信仰告白のニューアンスを強く含んでいるのではと感じます。特にパウロにとって、他の使徒たちのように生身のイエスさまとの接触がなかったわけですから、とりわけ信仰告白を献げるべきお方という思いが強かったのかも知れません。その呼び方はパウロにだけ見られるものです。近年、イエスさまを偉人としか見ない風潮が広がっていますが、イエスさまは私たちの信仰告白を献げるべきお方であると心に刻んでおきたいのです。

 そして、もう一つのことですが、パウロは、そのお方の「しもべ」であると言います。これも告白と感じます。奴隷という意味ですが、イエスさまに何もかも献げ尽くしたパウロだから言えたことではないでしょうか。テモテの名前があるのは、謙遜な彼をピリピ教会の人たちが良く知っていたからでしょう。そして、そこには多分富裕な商人が多く、彼らの家の奴隷もまた教会に来ていました。その辺りの事情もあってこのような言い方になったのではと思われます。

 パウロがこの手紙を書き送った理由の一つに、教会内に分裂騒動が起きていて(1:15−17)、弱い立場の人たちを巻き込んでいたと想像されるからです。分派ばかりではありませんが、教会の混乱は、しばしば彼らのような弱い人たちの信仰を蝕んでいきます。彼らが「純粋な動機から、キリストを宣べ伝える」(17)人たちに同感であっても、自分の主人がその反対の立場であるなら、主人に荷担せざるを得ません。そんな力関係がイエスさまの教会に起こるのはおかしいのですが、むしろ、それが現実かも知れません。現代教会にもそのようなことがあるかも知れません。しかし教会は、イエスさまに信仰の告白を献げるところであって、その告白教会は、「キリストのしもべ」として、だれもがイエスさまに仕え、互いに仕え合うところとはっきりさせておかなければなりません。この書簡は、そのような分派問題のある人たちへのものと思われますが、まず最初に、自分の信じるところを告白することの出来ない、弱い人たちへの慰めから始まっていいます。私たちの信仰姿勢を教えられるではありませんか。


V 愛の告白共同体に

 
もう一つは、一節後半です。「ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ」 パウロはここに、すべての聖徒たち、監督(たち)、執事たちと3種類の人たちを並べます。「すべての聖徒たち」とは、恐らく、いくつもの家々での集まりながら、教会は全市に一つの群れということなのでしょう。監督たちという言い方がそれを暗示していますが、その家ごとの集まりが、分派の温床になっていたのかも知れません。パウロの書簡中、最初の挨拶で「監督と執事たちへ」と挙げられているのは、このピリピ書だけです。パウロはこの手紙を、いがみ合っている彼ら教会指導者たちに、「主にあって一致してください」(4:2)と勧めるために書き送ったと思われます。ところでこの手紙は、恐らく、ピリピ教会からパウロに贈り物を届けたエパフロデト(2:25)に託されて届けられました。彼は病気になって長い間パウロのもとに留まり、有能な助手を勤めていたようですが、いつまでも手許に置いておくわけにはいかないと、パウロは彼を母教会に戻そうと決意します。恐らく監督か執事の一人だったと思われますが、彼は、まず最初に集会所の家々を廻って「すべての聖徒たち」の前で、教会の恥部にも等しい分派の問題を明らかにしようとこの手紙を読み上げ、それから、監督、執事たちの協議の席に持ち込んだのではないかと想像するのです。教会を立てていくのは、実に忍耐のいる仕事であると教えられます。監督・執事たちよりも、聖徒の一人一人が大切にされているのがこの書簡の特徴と感じます。

 そして、ここにもう一度「キリスト・イエス」と繰り返されています。2節には「イエス・キリスト」となっていますので、そちらのほうが普通で、「キリスト・イエス」という言い方が特別だと主張しているのでしょう。この手紙を受け取った人たちにも、パウロとともにイエスさまへの信仰を告白して欲しいと聞こえて来ます。監督たちや執事たちだけではなく、すべての聖徒たちを巻き込んだ争いを念頭に置いているのでしょう。一致とは、このイエスさまを救い主と告白する信仰の一致でなくてはなりません。この書簡には「喜び」ということばがたくさん記され、麗しい愛の交わりが浮かんできますが、エパフロデトから聞いていたように、ピリピ教会はまさにその通りの教会だったのでしょう。それがどこかでおかしくなってしまった。しかし、パウロは回復の希望を持っていると感じます。かつて、紫布の商人ルデアと出会い、また、看守一家が揃ってバプテスマを受けた町、パウロには忘れられない告白教会という原点を持つ群れです(使徒16章)。「兄弟が一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさ」(詩篇133:1)というみことばが浮かんできますが、クリスチャンとは信仰を同じくする告白共同体、愛の交わりであると覚えたいですね。