ペテロの手紙 第T

十字架のイエスさまこそ

Tペテロ 2:22−25
イザヤ 53:1−12
T 罪なきお方なのに

 先週、「しもべたちよ」(2:18)と、迫害に会っているクリスチャン奴隷たちのことを考えてみました。ペテロは、イエスさまを信じる私たちすべての者に、奴隷、自由人の区別なしに、みなが神さまのしもべだと教え諭しているのです。私たちクリスチャンは、イエスさまを信じない人たちのあらゆる価値観で周りを取り囲まれており、時には敵対視されています。その人たちに彼は、あくまでも誠実に接していくよう、信仰者の姿勢を指摘しているのでしょう。それこそ、しもべとしての生き方であるとして。神さまを中心にしていくなら、その神さまが私たちを支えてくださり、志すそんな生き方が可能であると、これまでのペテロの歩みをベースに勧められた信仰告白であると聞こえてきます。

 「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(2:21)と、先週のところを終えました。今朝はその続きですが、私たちは神さまのしもべであるという信仰告白に続いて、ペテロはその根源とも言える、最も大切な告白を展開しようとしています。イエスさまに対する告白です。

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」(2:22)と、彼の告白が始まります。最初に、イエスさまは〈罪を犯したことがない〉という点を考えてみたいと思います。ここで不思議に思うのですが、もし私がその時代に生きてイエスさまを見ていたとして、イエスさまに罪なしと証言することが出来るかと問われたら、「出来ません!」と答える以外にないと思うからです。これは、ガリラヤ時代以降イエスさまと行動を共にしてきたペテロにとっても、同じことでしょう。人間同士の特定な個々の罪についてならともかく、私たちがイエスさまに対して「罪なし」と確定することは、無理ではないでしょうか。しかし、「その口に何の偽りも見いだされなかった」とこれは、イエスさまには罪そのものがないという証言です。そしてもう一つの点ですが、ペテロはイエスさまを聖人君子と認め、恐らく罪のないお方だったと推測しているのではありません。推測ではなく、断定の言い方で、「罪を犯したことがない」と証言しているのです。ならば、そこにどんな意味が込められているのか、聞いてゆかなければなりません。


U 神さまご自身であるお方

 第一に彼は、「罪なし」と言うことで、〈イエスさまは聖なるお方・神さまご自身である〉と証言していると聞こえてきます。

 イエスさまが神さまご自身であるという直接の証言が、ペテロ第二の手紙にあります。「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」(1:1) 「主イエスの神としての御力」(1:3) 第二の手紙は、第一の手紙から3〜4年経った頃に書き送られたものですが、そのころローマのクリスチャン迫害はピークに達しており、教会の中にもさまざまな反応が現われていました。そんな状況の中でペテロは、一層はっきりとイエスさまのことを証言する必要を覚えたのでしょう。それよりほんの少し前に、パウロも同じような証言をしています。「祝福された望み、すなわち大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリスト」(テトス2:13) この第一の手紙の状況は、まだそれほど激しい戦いの様相を呈していなかったからでしょうか、「イエスさまは神さまご自身」という証言に代え、「イエスさまに罪はない」という言い方をしているのです。しかし、表現がどうあれ、「イエスさまは人間にすぎない」とする教えが、迫害者への妥協案として小アジヤの教会に浮上していました。救い主がたとえ非常にすぐれていたとしても、私たちと同じ人間であるならば、その教えに「絶対性」はなく、人間の都合で適当に言い換えることが可能だからです。そしてそれは、キリスト教2000年の歴史に非常にしばしば現われ、聖書の組み替えや神学の議論になってきました。現代の私たちの中にも、「キリストは神ではない」とする、そんな思想が根深くあるのではと思われてなりません。気をつけて欲しいのですが、キリスト教異端とされるもののほとんどは、イエスさまを神さまご自身ではないとしているのです。

 イエスさまが神さまご自身であるということがどんな内容を持っているかは、このところでのペテロの関心事ではありませんので別の機会にゆずりますが、ペテロはここで、イエスさまが神さまご自身であることの中心点はこれであるという事柄を展開しています。イエスさまの十字架の出来事です。彼は「ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(23-24)と証言します。ゲッセマネの園で逃げ出したために、少し離れてでしたが、彼は十字架のイエスさまを終わりまで見つめていたのです。〈イエスさまには罪がない〉という信仰告白は、十字架を中心に聞いていかなければならないと、ペテロから私たちへのメッセージでしょう。


V 十字架のイエスさまこそ

 イエスさまが罪のないお方であったということを裏返してみますと、人間は罪あるものだというメッセージが浮かび上がってきます。それこそが神さまと人間の最も異なる点です。

 イエスさまのことを考えてみたいのです。一家を支えるためにナザレの大工として働き、苦労の中に生きて来られました。そこには苦しみも悲しみも痛みも空腹も、そして、愛も喜びも楽しみさえあったことでしょう。私たちと同じように生きて来られたのです。しかし、罪を犯したことはありませんでした。その点で、私たちとは断固異なるお方であったと言えましょう。ヨハネはこう証言しました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14) 〈人となった〉とは、〈肉体をとり〉ということです。人間と同じ姿になりながら、その中に、栄光に満ちた本来のご自身のお姿を合わせ持つお方でした。イエスさまは、何度も人となったご自身の歩みを、これで良いのかと問いかけて来られたようです。そして、バプテスマの折りにも、荒野の誘惑の折りにも、変貌山の折りにも、その栄光をお捨てになって十字架への道を選び続けられました。パウロも証言しています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです」(ピリピ2:6-8)

 ペテロが「ご自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われた」と言ったのは、十字架に私たちの罪を背負って死んでいくことで、〈罪あり〉とする本来の人間になられたという証言なのでしょう。罪ある者は死ぬというのは聖なる神さまのルールでした。そのルールに照らし、私たちこそ本来死ななければならない者であるのに、イエスさまが代わって死んでくださったのです。その身代わりの犠牲は、私たちをお造りになった神さまご自身として、ご自分の民である私たちを愛し、惜しまれ、創造時の原点にまで私たちを回復しようとされたところにあるのではないでしょうか。ペテロの証言にある通りです。「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」(2:24) イザヤ書のことばも聞いておきたいと思います。「まことに彼は私たちの病いを負い、私たちの痛みをになった。彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(53:1-12) これこそ聖書の中心メッセージであると聞いていきたいのです。

 〈イエスさまが十字架に私たちの罪を背負って死んでくださった〉 今まで何度このことを繰り返してきたでしょう。毎週の説教が、同じこのことの繰り返しだと聞いて頂けるなら嬉しいことです。そして、イエスさまの十字架こそ、私たちの罪の赦し・救いであると信じ告白して頂きたいと願います。それは、私たち自身と周りの人たちを変えていくことの出来る力ですから。