ペテロの手紙 第T

キリスト者の旗印は

Tペテロ 2:11−17
イザヤ  62:10−12
T 信仰に磨きをかけて

 10節に「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です」とあります。昔、クリスチャンになって3年は過ぎていたと思いますが、イエスさまを信じる信仰ということで、一つのことを教えられました。〈私が教会に行ったから、頼るべきお方イエスさまを見つけたのではない。イエスさまが私を見つけ、私に出会ってくださり、教会に導いてくださったのだ!〉と。ずいぶん奥手だったんですね。神さまがいつも私の先にいてくださったのです。その信仰の目が開かれるきっかけになった方ですが、病気療養中だった一人の姉妹を忘れることが出来ません。若くして召されたのですが、「神さまはいつも私をあわれんでいてくださる」と、姉妹はいつも心からの感謝の日々を送っておられました。私などは、つい何でも自分でと思ってしまうのですが、その方のことを思い出すごとに、神さまのあわれみの中に招かれていることを忘れてはならないと戒められています。

 先週のところですが、イエスさまの十字架に罪を贖われ、神さまの栄光が輝いている光の中に、神さまの国、神さまのいらっしゃるところ・教会に招かれている者として、その栄誉をしっかり受け止めていこうではないかと、ペテロの勧めを聞きました。今、彼のいるローマにも、ネロ皇帝のすさまじい迫害が近づきつつあります。この手紙は小アジヤの教会のためばかりではありません。繰り返しますが、ペテロは、迫害に会っている小アジヤの教会の人たちに、どのように信仰を守り通したらいいのか、彼も共に苦しみ、祈りながらこの手紙を書き送ったのでしょう。彼は、神さまのことばに聞いて、そこに証言されている十字架とよみがえりのイエスさまを見つめることだけを大切にして欲しいと願っています。これを、現代の私たちにも語られていることばとして聞いていきたいのです。2:4に「霊の家に築き上げられなさい」とありました。神さまの光が輝いているところ、或いはそれはこの地上に建てられた間違いの多い教会かも知れませんが、私たちはそこで人格を磨き、何よりもイエスさまを信じる信仰に磨きをかけていくように勧められているのです。光に招かれている者にふさわしく。今朝は11節以降から、更に具体的な勧めを聞いていきたいと思います。


U 戦いを挑んでくる罪を

 「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり、寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」(2:11)と、今朝の箇所が始まります。〈たましいに戦いをいどむ肉の欲〉、これは何回も言ってきましたが、ローマ人たちが、かつては仲間として同じところにいたが、今はクリスチャンとして教会に時間を捧げ、一緒に遊ぶことを止めてしまった同僚に向かって、俺たちのところに帰って来いとの誘いを指しています。ローマ人の付き合いの大抵は、酒であり、ばくちであり、女であり、どんちゃん騒ぎの宴会であり、それは快楽主義と言っていいでしょう。これをペテロは〈肉の欲〉と表現したのです。それは、イエスさまを信じる信仰の良心に戦いを挑むものでした。ここで勘違いしてはならないのですが、ペテロはローマ人の生活すべてを否定したわけではありません。現代の私たちにとっても、この社会と絶縁しなければクリスチャンではないかというと、そうではありません。先々週も触れましたように、修道院に入って信仰の純粋培養をしなければ信仰を守り通すことができないと考えた人たちもいましたし、そうではない、信仰とはこの世の人々と生活を共にしていく中で、その戦いの中で守り通していくものだと考えた人たちもいました。どちらが良い、悪いの問題ではなく、揺れ動く戦いの中にこそ、信仰の戦いがあると考えるべきなのでしょう。ローマ人の快楽主義という価値観に問題があるのは、それが肉の欲に傾いていくからです。

 避けなければならないのは、肉の欲という私たちの罪の事柄でしょう。そして、私たちにとって何が肉の欲かは、これこれが神さまから引き離そうとするものであると、時代時代に、私たち個人個人が戦いの中で決定していくものではないでしょうか。イエスさまを信じる信仰は、決して一律に「あれをしてはいけない」、「これをしなければならない」といったルールを定めるものではないのです。それは、他の人にとっては良いことでも、自分にとっては罪に誘うものかも知れません。そんな心の戦いをしてくことで、人格的にも倫理的にも、平均的なローマ人や現代人から一歩抜きんでていく者となるのではないでしょうか。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」(12)とあります。イエスさまを信じる信仰は、目に見えるものではありません。しかし、私たちは、イエスさまの証人として、その信仰を目に見える形に表していくのです。それは言葉だけによるものではありません。私たちの信仰がクリスチャンとして香るような人格を形成していくなら、それが周りの人たちへの証しになるでしょう。もちろん、その信仰は、神さまの助けのもとに、造り上げられていくものでしょうが。


V キリスト者の旗印は

 若い頃に礼拝のメッセージで、「信仰の旗印を掲げよ」と何度も聞きました。今でもあざやかに耳に残っています。あれから何十年、どれだけ旗印を掲げて来たか、それは恥ずかしくて問えませんが、今でもその旗印を掲げ続けたいと願っています。その旗印、キリスト者としての神さまの前に捧げる信仰の香りでありたいと願うのです。ペテロがここで勧めているのは、単なるキリスト者の倫理的人格ではなく、他の人にも漂っていくキリスト者の香りのようなものではないかと感じています。昔、東京で、初めての教会の日曜礼拝に出ようと近くまで行っているのですが、なかなかその場所が分からず、車を止めて祈りました。そして、注意深く周りを見ていると、住宅街なのに何人かの人たちが同じ方向に歩いているようです。じっと眺めていると、その人たちが教会に向かっているような気がしました。何となく香りのようなものがその姿から感じられたのです。その人たちの後についていくと、果たして探していた教会に辿り着きました。

 戦争中、堂々と「私はまことの神さましか礼拝しない」と表明し、当時の風潮であった天皇崇拝を断固拒否して投獄された、傑物とも思われる牧師がおられました。その出来事を聞いて、信仰の旗印とはそのようなものかと、心燃えるものを感じました。しかし、自分がそのような状況に置かれたら、殉教していった先輩方のように信仰を守り通すことが出来るだろうかと、考えてしまいました。答えは「ナイン」ですね。ただ、ペテロがここで「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい」(13-14)と勧めているのは、権力を持つ国の指導者への盲目的な絶対服従を言っているのではなく、神さまの基準の中に生かされている者として、自由な意志を持っての服従と理解しなければならないでしょう。強制されてではありません。王が間違っていたら、その王のために祈る、弱い者にもそのような香り立つ信仰の祈りがあると覚えたいのです。

 イザヤ書にこうあります。「通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ」(62:10) この旗は11節の〈あなたの救い〉でしょう。それはイエスさまの救いを意味しています。「彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれる……」(同12)  私たちはイエスさまのものであるという旗印を掲げるのです。周りの人たちに振り回されるのではなく、信仰の自由の中で、その自由をイエスさまに喜んで頂くために〈神さまの奴隷として〉(2:16)献げ、信仰の戦いを戦うのです。